「待ち焦がれた」青函掘った男たち万感 北海道新幹線あす開業

 
北海道・松前郡福島町の青函トンネル記念館にある工事で使用したボーリングマシンの前で開業への思いを語る花田順一さん=2016年3月2日(杉浦美香撮影)

 北海道新幹線が26日、開業し、本州と北海道を結ぶ青函トンネルを初めて一般客を乗せて走る。この記念すべき日を万感の思いで迎える人々がいる。四半世紀にわたり、全長で世界第1位の青函トンネル掘削に携わった“トンネルマン”たちだ。

 何度も危機

 「この日を長く長く待ち焦がれてまいりました」

 青函トンネルの作業基地があった北海道福島町の「青函トンネル記念館」。新幹線開業を控え、例年より約2週間早めた開館式典で、ボランティアガイドの花田順一さん(86)があいさつした。

 漁師の家に生まれ、イカやサンマを追ったが、北洋漁業が衰退したこともあり、1963年に日本鉄道建設公団(現鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の募集に応じた。工業高校出身ということもあり、本坑に先駆けて地質調査を行う「先進導坑」のボーリング班長を任された。

 大きな水圧がかかる海底での作業。穴を掘ると水が出るためセメントを注入し、固めながら掘り進める。長靴が汗と水で重くなった。1日わずか1メートルしか掘り進めない時もあった。「水平ボーリング」などの新たな技術を開発しながら前へ進んだ。

 「手探り状態での作業だった。『10年』と思っていたが、20年以上かかってしまった」

 異常出水に襲われ、何度も危機が訪れた。最大の危機は、76年5月。作業坑から最大毎分85トンも出水し、トンネル全体が水没しかねない状況に陥った。花田さんと同様、元漁師で同郷の角谷敏雄さん(81)に招集がかかった。

 苦しみと悲しみ連続

 「トンネルを沈めてはならねえ」。角材を組んでいかだにし、移動式ポンプを運んだ。足がつかないほど浸水したところでは水中に潜って作業した。

 「あの時は戦争だった」

 何よりもつらかったのは、掘削技術のイロハを教えてくれた先輩や、息子のように目をかけていた後輩の3人を事故で失ったことだ。「悲しみ、苦しみ、また悲しみの連続でした」

 83年1月27日。先進導坑が貫通した。亡くなった3人の写真を胸に貫通式に臨んだ角谷さんは、涙が止まらなかったという。

 工事では、3人を含む計34人の命が失われた。

 「新幹線が通らないと意味がないと思っていた。本当にうれしい」と振り返るのは、青函トンネルの掘削に携り、今も現役のトンネルマンの佐々木龍雄さん(64)。オイルショックによる経済悪化で整備新幹線の着工が凍結されたときはショックを受けたが、念願がかなう日が迫る。

 「苦労した仲間と一緒に新幹線で青函トンネルを渡り、『ようやく通ったよ』と酒を酌み交わしたい」(杉浦美香/SANKEI EXPRESS