3人は逃亡中、偽名を使い、それぞれ病院内の喫茶コーナーの開設と運営、病院新設のための用地探し、新人研修医獲得のための大学回りなどの仕事を割り振られて働いたという。
病院は3人に家賃や光熱費を請求せず、給与も直接支給しなかったといい、表向き3人との接点はなかった。しかし、3人の生活費として、徳洲会幹部(当時)らが関連企業や後援者の経営会社を経由させて、給与相当額を毎月支給していたという。
93年に逃亡した2人は、鹿児島地検が被疑者不在のまま起訴を繰り返して時効を中断させたため、逃亡を断念して96年ごろに自首。実刑判決を受け服役した後、グループに復帰し、現在はそれぞれグループ病院の事務局長、クリニック事務長を務めている。
91年に逃亡した男性は、約6年4カ月後、時効成立を受けて本名に戻り、鹿児島県内の医療施設の事務長に就いた。
3人のうち1人は取材に応じ、「投票当日に理事長から電話で『逃げろ』と言われ、時効成立まで逃げ切るよう指示された。グループ本部から毎月、取引先企業の口座を経由して生活費が振り込まれた」などと話した。