というのは、作者が、それがどんな文章である以上、文章を書く者がレベルは違うにしろ必ず陥る名文意識から完全に免れているからであろう。それが証拠に、作者はときに、極度に俗な、いい加減なポエムのような言葉や、広告宣伝の言葉、フィッシング詐欺の言葉といった、うすら寒い、真情というものをまったく持たない言葉を自らの文章に組み込むことによって、かえって小説そのものの、真情を際立たせるという技法も用いている。
些末を切り捨てない
そこへさしてなおよいのは、作者の目のよさ、というか、この世の、普通の小説であればノイズとして切り捨てられるであろう、誰が置いたのかわからないが、路傍にふと置かれ、放置されたもの、や、通り過ぎる小型犬の眼差しや、これには多少、感情の要素、すなわちなぜそんなところに長時間座らされなければならないのか、という怒りの感情が混ざるのかもしれぬが、パイプ椅子などに、その場にそぐわない感じを見出し、そして、それらを、音楽家の手つきで効果的に出し入れすることによって、別の輝くような魂を吹き込んでいるという点である。また、作者は古今の映画に通暁していると聞くが、そうした映画のひとつびとつのショットとそこから派生する映像が作者の頭脳の中で自在自由に混淆(こんこう)されているのかもしれない。