発明間もないころの自動車は、現代の我々がイメージするクルマとはずいぶんと形が異なる。車輪は大きく細く、座席は高く、ボンネットがなく、チェーン駆動で機械部分が全部むき出し。エンジンを外して馬に曳かせれば、そのまま小型の馬車の造形である。つまりは動力を馬からエンジンに替えただけのものが自動車の始まりということになる。
馬車の名残は時代を経るごとに薄まっていったが、現在でも使われていて誰もがよく知る用語が残っている。エンジンの出力性能を表す「馬力」は、ざっくり言うと、1頭分の馬の力を1として出力の大きさを示す単位である。たとえば2馬力であれば、馬2頭分のパワーを持つエンジンという具合。輸送の動力源としての馬が生活に密着していた欧米の人々にとっては、直感的に分かりやすい数値だったのだろう。
蒸気機関が優位、内燃機関は少数派
黎明期の自動車は蒸気機関、電気モーター、内燃機関(ガソリン)と3つの動力方式が競い合っていた。当初、運転が容易でスピードが出るなどのメリットから蒸気機関が優位に立っていたが、石油採掘・精製技術と内燃機関技術の発達に伴い、自動車用動力としての蒸気、電気は廃れていった。
この構図は、内燃機関(ガソリン、ディーゼル、LPガスなど)、電気モーター(燃料電池式含む)、ハイブリッドと複数の動力方式が次世代の勢力を競い合っている現在の状況と似通っていて興味深い。30年後、かつての蒸気機関のように内燃機関は淘汰されるのか…などと思いを巡らすのも一興だ。
そのころ、日本は人力車だった
欧米で自動車産業が産声を上げ、着々と成長を遂げていったそのころ、ちょうど明治維新を迎え近代国家へと生まれ変わろうとしていた日本はどうだったか。展示を見て正直愕然としたのだが、当時の日本で人を乗せる車輪付きの乗り物は人力車だった。
徳川幕府の鎖国300年で、近代化が遅れたのは当然影響していると思うが、それ以外にも理由がありそうだ。
欧米では自動車が発明される何世紀も前から馬車が使われ、快適に移動できるように街路には石畳、つまり交通インフラが整備されていた。
これに対し、日本では山がちの地形のせいか、車輪付きの乗り物に人を乗せるという発想がそもそもなかった。近世までの日本で人間の移動手段と言えば、徒歩以外では籠か牛馬の背に乗るくらいしかない。車輪のついた輸送手段もあるにはあったが、それらはいずれも牛車などの荷車、あるいは祭祀で使われる山車。人を乗せるために作られたものでないから、快適性に重点を置いた車輪用の交通インフラ整備はされなかった。