ミラノの中学に通う息子が、「クラス対抗のサッカートーナメント戦でぼくたちのクラスが勝ち残った」と言う。
「良かったね。優勝か」と何気なく言葉を返すと、まだ1ゲーム残っているという。場所は、学校よりは「マシ」な小規模ながらスタンドもあるサッカー場だ。
戦う相手を聞いて驚いた。先生のチームなのだ。体育だけでなく、色々な教科の先生が集まった合同チームとの対戦である。生徒の戦う最後が大人というのは意外だった。
学校の先生たちが生徒たちに身体ごとぶつかり、子供たちは何かを学んでいくのだろう。
そういえば、と一つ思い出した。サッカーのチャリティ試合には、かつての有名選手が一斉に集まるオールスターだけでなく、政治家やミュージシャンなどがプレーする試合が恒例行事としてある。
やっとのことでボールに追いつく不格好な姿をテレビで見ながら、彼らが子供の頃に得意になってボールに馴染んでいた姿が思い浮かぶ。サッカーが世代やその他のカテゴリーを超えて共通言語になっていると思わせる一瞬である。
しかしながら、ぼくはずっと「サッカーは世界の共通言語」とのキャッチフレーズには疑いをもってきた。というのは、W杯で世界中の人たちが興奮するという表現には嘘があり、サッカーというスポーツのルールを知っている人に限って興奮できる、というのが正しい。
これはスポーツに限らない。