太陽光発電パネルの価格は、中国国内の新型コロナウイルス感染拡大での工場の操業停止により供給不足が発生したことで上昇し、その後、世界各国での太陽光発電プロジェクトの遅延により下落するなど乱高下した。(日本総合研究所・瀧口信一郎)
この環境下で中国の太陽光発電産業は、リーマン・ショック時には激減した欧州への輸出を補うために中国政府が巨大な国内官製市場で中国企業を支援した状況に比べ、大きな被害は受けていない。今後、収益競争で脱落する企業は出るかもしれないが、2010年代に新興企業が育ち19年には世界トップ10のうち9社を独占している中国の優位は変わらないだろう。
帰国留学生が牽引
中国のエネルギー技術は多くの場合、国営企業による海外企業との合弁を通じて獲得されたが、太陽光発電技術は留学生により持ち込まれたものである。00年代に一世を風靡(ふうび)した尚徳電力(サンテックパワー)の創業者、施正栄氏は1988年に国費でオーストラリアに留学し、2000年にその技術を携えて帰国。海外市場の競争に参加し、中国の太陽光発電産業を牽引(けんいん)した。
改革開放政策を推し進めたトウ小平は、1978年に留学生を数万人単位で海外に派遣すべきだと発言し、79年には米中間の留学生の交流で合意、中国人留学生の爆発的増加のきっかけを作った。明治維新後、日本が国を挙げて欧米から技術を導入したのに比べ、中国は大国のプライドや国内政治の混乱で、国を挙げてというわけにはいかなかった。トウ小平は国家主導で海外からの技術移転を徹底したのである。
当初は国費留学が中心だったが、90年代には私費留学が増え、中国人留学生の数は2000年前後に急拡大した。筆者は1999~2001年にテキサス大学のビジネススクールに留学したが、当時、クリントン政権は日本より中国を重視しており、米国石油産業の中心地でエンロン(エネルギー商社)のエネルギー金融技術が脚光を浴びていたテキサス州にも、中国からの留学生が多くいた。
当時を思い出して印象に残るのは、中国人留学生の大半は、自らの人生を切り開くために渡航し、努力する人たちだったということである。中国人留学生はレストランでアルバイトをしてお金を稼ぎながら、膨大な宿題もこなしていた。個々人を見れば、豊かな米国の生活に憧れ、自分の力を試したいとの思いで努力する若者に過ぎなかった。米国に残ってヒューストンのエネルギー会社で働き、米国人と同じように生活を送るかつての同級生は、その時代の中国の若者の夢を実現しているのだろう。
子供の学力は世界一
日本にも多くの中国人が住む今、その子供に対する教育熱心さに驚いた日本人も多いのではないか。小さいころから子供に英語も学ばせ、日本で高校を卒業した後、米国のトップスクールに入学を決め、家族全員で米国に引っ越す話も聞く。