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“原発王国”関電のプライド「当社はパイオニアだ」 廃炉時代に模索続く

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“原発王国”関電のプライド「当社はパイオニアだ」 廃炉時代に模索続く

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美浜1号機の試送電の成功を伝える大阪万博会場の電光掲示板=昭和45年8月8日(関西電力提供)  関西電力が、美浜原発1、2号機(福井県)の廃炉を決断した。世紀の難工事、黒部ダム(富山県)の建設中から原発を基幹電源に位置付けた関電。昭和45年に大阪万博の会場への送電に成功した美浜1号機は「原発王国」を築く礎となった象徴で、その廃炉は関電の経営が大きな転換点に差し掛かっていることを浮き彫りにしている。関電は今後も原発を電源の基軸に据えるが、原発をめぐる政策や世論は定まらず、情勢には不透明さが漂う。視界が見通せないなかでの暗中模索が続く。(内山智彦)

 パイオニアの矜持

 「当社は原子力開発のパイオニア。(原発により)関西に低廉な電気を供給して環境問題にも貢献してきた」

 昨年12月の記者会見。関電の八木誠社長は「なぜ原発に注力するか」との質問に対し、こう答えた。

 関電の原発開発の歴史は昭和32年にさかのぼる。国内9電力会社で最も早く原子力部を設置。原子力の将来性に目を向けた。前年には、資本金を超える事業費を投入した黒部ダム建設に着手したばかり。「世紀の難工事の行方も見えないなか、次のエネルギー開発を見据えていた。先見性とフロンティアスピリットに感じ入るものがある」と関電幹部は話す。

 関電初の原発となる美浜1号機の運転開始に至る道のりは、今も関電の語りぐさだ。後に“12人の侍”と呼ばれる若手技術者たちが渡米し、原発の運転方法や理論を習得。帰国後、社員にスパルタ教育を施して理論を叩き込み、また独自に日本語版のテキストをつくって技術を伝えた。一からの手作りで日本の原子力発電の黎明期を支えたことは、確かにパイオニアの名にふさわしい。

 “強さ”の源泉

 美浜1号機は45年8月、大阪万博の会場へ送電に成功。11月には東京電力の福島第1原発との先陣争いを制し、営業運転を始めた。原子力専業の日本原子力発電を除くと、国内電力会社初の原発。その後、関電は高浜、大飯(ともに福井県)と原発を新設し、販売電力量の約半分を原発でまかなう体制を構築した。

 原発が生み出す低コストの電気は、関電の競争力の源だった。東日本大震災前の電気料金は、全国でほぼ最低水準。大口顧客向けで始まっている電力小売りの自由化でも武器となるはずだった。

 一時は中部電力管内にも営業の攻勢をかけ、「トヨタ自動車グループに電気購入先の乗り換えを勧めに来た」(中部電関係者)との情報もかけめぐった。「手を抜いたら関電に取られてしまうという恐怖感があった」。元中部電幹部はこう話す。

 ただ、“原発依存”の経営戦略は福島第1原発事故のため裏目にでた。原発停止の長期化で、代わりにフル稼働する火力発電所の燃料調達コストが急増。その影響で関電の電気料金は上昇。昨年末に申請した値上げ幅で再値上げされると、全国最高水準となる計算だ。すべての解決は原発の再稼働にかかる。「原発の再稼働に全力で取り組む」。八木社長が繰り返すのもそのためだ。

 新時代の模索続く

 「将来も原発の規模は一定程度必要。今も建設したい気持ちは変わっていない」

 3月17日に行われた美浜1、2号機の廃炉決定の発表。関電の担当者は、後継機の新設に意欲を示した。

 美浜1号機は運転開始から40年となる平成22年に10年間の延長運転とともに、新設(リプレース)を目指す方針が決まり、地形調査などが始まっていた。しかし、東日本大震災でストップしている。関電は今後も引き続き原発を基幹電源とし、リプレースなどを進めていく方針だ。

 ただ、原子力をめぐる先行きには不透明感が漂う。政府は新増設について態度を明確にしておらず、新増設がないまま、原発の運転期間40年を一律に守ると、2040年代には、関電を含め国内の原発はゼロになってしまう。

 また、平成28年春に始まる電力小売りの全面自由化も懸念材料だ。4千億~5千億円とされる巨額の投資が必要な原発。これまでは建設などにかかったコストを料金に乗せる「総括原価方式」で投資を回収できたが、全面自由化で総括原価方式がなくなると原発への投資はしにくくなるとされる。

 また、原発の規制基準は年を経るごとに厳しくなるとみられ、安全対策費が増加を続けるとの見方もある。「関電といえども、原発だけには頼れなくなるのでは」(証券アナリスト)との声も上がる。

 一方、国内原発の稼働ゼロは、火力発電用の燃料費の増大や貿易収支の赤字、さらには電気料金の上昇を招いていることも見過ごせない事実だ。「廃炉時代」の戦略を求め、原発王国の模索は続く。

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