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「ヘイトスピーチ」がもたらす悲劇 渡辺武達
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学校周辺での差別的な街宣活動により、授業を妨害されたなどとして、学校法人京都朝鮮学園が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などに街宣活動の禁止や3000万円の損害賠償などを求めた訴訟で、京都地裁は10月7日、在特会側に計1226万円の支払いと学校周辺での街宣活動の禁止を命じる判決を出した。橋詰均裁判長は、在特会の街宣活動が、人種差別撤廃条約で禁止されている「人種差別に該当し違法」と認定した。
いわゆる「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)や「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)をめぐり、日本で初めて賠償命令が出されたことから、新聞やテレビでも大きく扱われた。だが、肝心の「表現の自由」とは何であるかという深い議論は行われず、メディアにコメントを寄せた識者からは、「今回の判決は表現の自由を守る上で、必ずしもプラスにはならない」といった意見も出されていた。
日本では上級審になるほど、政府の意向に沿う判決に修正されていく傾向がある。人種差別撤廃条約に基づくヘイトスピーチに対する処罰も、日本では法的に具体化されておらず、最終的な判決がどうなるかは分からない。
一方で、在特会は今回の裁判が起こされた後も、東京・新大久保や大阪・鶴橋などのコリアンタウンで数百人規模のデモを主導し、差別的なスローガンを横断幕で掲げたり、マイクで叫んだりして、示威活動を続けてきた。
今では誰もが「表現の自由」や「報道の自由」は、民主制に不可欠なものだと考えている。それを法律として最初に保障し、現代に続く「言論の自由」の先駆けとなったのは、1766年に北欧スウェーデンの憲法に加えられた条項である。その後、米国も建国にあたり、憲法修正第一条で「信教、結社、言論、示威・請願等の自由」を保障した。ただ、これは、ドイツの歴史哲学者ヘーゲルが「世界史とは自由の概念の発展にほかならない」(『歴史哲学講義』)と言った高尚な哲学に基づくものではなく、利害対立する政論をまとめるための苦肉の策という側面が強かったようだ。
一方で、「表現の自由」の拡大解釈も横行し、1814年にはノルウェーが、自由の乱用を制限する条項を導入した。そこでは、「故意に、かつ明確に、法律違反をそそのかしたり、宗教や道徳、合法的な権力を侮辱する記述をしない限り、あるいは他人についての虚偽や名誉毀損(きそん)をしない限り、何人もどのような内容であれ、印刷されたり、公表されたりした記述のために処罰されることはない」と、一定の条件を定めている。
現在のジャーナリズムや学界の一部にある「自由な言論の中から最後は正しい言論に落ち着く」と主張する「自由解放論」や「思想の自由市場論」は、すでに200年も前に否定されている。つまり、表現の自由には、社会的な「責任」が伴うということだ。
歴史上、ヘイトスピーチによってもたらされた悲劇は枚挙にいとまがない。ナチスドイツによるユダヤ人の虐殺、第二次世界大戦時の日本による反米英扇動、米英による反日扇動…。1994年にアフリカのルワンダで起きた大虐殺は、対立部族の殺害を扇動するラジオ放送がきっかけだったといわれている。
ヘイトスピーチがなぜ否定されるべきなのかは、1970、80年代に活躍した劇作家、つかこうへい氏(1948~2010年)の言葉からも明らかだ。在日韓国人であるつか氏は、「人生とは、何をはしたなく思うか、恥と思うか、それだけです。恥のない人間は、日本人だろうが韓国人だろうが、クズです」(『娘に語る祖国』光文社刊)と語っている。(同志社大学社会学部教授 渡辺武達(わたなべ・たけさと)/SANKEI EXPRESS)