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【溝への落とし物】束の間の想像 本谷有希子

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【溝への落とし物】束の間の想像 本谷有希子

更新

捻出した時間で、エイを鑑賞(本谷有希子さん撮影)  〆切に追われて、私は考えた。

 仮に、自分が「小説を書かなければいけない時ほど、あえて机に向かわない」というスタイルを実践してみたとしたらどうなるだろう、と。これは脳科学的にも、かえって効率がいいと証明されている方法のはずだ。机に向かわないのだから、当然執筆時間はグンと少なくなる。ということは、自由な時間が大幅に増える。私の生活はどんなふうに変化するのだろう。

 めくるめく一週間

 まず、空いた時間で月曜日には自動車教習所に通うことができる。行きたいと思いながら断念し続けていた教習所。4、5時間ほどと考えれば、十分に捻出することが可能に思える。

 火曜日には、ちょっとした旅行をするという習慣も設けられる。遠出は無理かもしれないが、行ったことのない駅まで乗り継いで、その土地の商店街を駆け抜けることくらいはできるのではないか。この場合、わが家を中心に、自転車のタイヤの軸をイメージして放射状に移動することを心がける。そうすれば寄り道の誘惑に打ち勝つこともできるし、休憩時間の終わりまでに原稿の前まで戻り、何食わぬ顔で仕事を再開できるだろう。

 そうなったら、水曜日は運動だ。ジムに行ってもいい。プールで泳いでもいい。体を動かせば、きっと脳が活性化し、今まで考えもしなかったアイデアが次々とひらめくに違いない。当然、木曜日は家にこもるべきだ。外にばかり向けていた目を、もう一度、内側へ。棚のほこりをじっと見つめているうちに、今まで見過ごしていた発見をすることもあるだろう(友達を家に呼んでパーティーを開いてもいい日でもある)。

 金曜日か。そろそろ、自由を手に入れ、やりたかったことが尽きるころかもしれない。進んでいない原稿を見下ろし、「本当にこれでいいんだろうか…」と迷いが生まれ始める可能性が高い。だが、集中できていない時にどれだけ努力しても意味はないのだ、とそんな自分に徹底的に喝を入れるチャンスだと、あえて私は考えるのではないか。この辺りで執筆時間をさらに短くしようと、私は思うだろう。そして、より自分を追い込むために、この日はもう寝てしまう。

 土曜日は朝から落ち込んでいる。前日のことを後悔しているのだ。弱い私はついに不安に打ち勝つことができず、早速執筆に取りかかろうとする。…書くだろうか? 本当に? 甘い考えかもしれないが、そこで「今、あきらめたら、執筆スタイルを変えようとした努力が、すべてが水の泡だ」という、もう一人の自分の声が聞こえる可能性を、私は信じたい。そうして痛みを伴う英断で、初志貫徹することを心に誓った私は、あえてスキーに出掛けるのだ。歯を食いしばって泣きながら夜まで滑り、どうせなら…と一泊していくだろう。

 日曜日の夕方まで、たっぷり遊んで帰ってきた私は、この一週間で初めて真剣に原稿に向かい始める。

 集中する。

 波を掴(つか)んだ私は、自分ではない誰かに突き動かされているようなスピードで、真っ白な原稿にみるみる言葉を紡いでいく。集中力が恐ろしいほど続く。私は書き続ける。

 そして現実へ

 半ば呆然(ぼうぜん)としながら壁にかけられた時計を見上げる。-すると、深夜0時ぴったり。出来上がった小説は今までで一番出来がよく、読んだ編集者は「傑作だ」と飛び上がって喜ぶ。

 「どうやって書いたんですか」と聞かれた私は「机に向かう時間を減らしてみただけ」と答える。「このやり方だと、今までより、ずっと効率よく書けるってことが分かったよ」

 ──そうであってほしい。私はまだ真っ白な画面が光っている、ノートパソコンを恐る恐る閉じた。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS

 ■もとや・ゆきこ 劇作家、演出家、小説家。1979年、石川県出身。2000年、「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。07年、「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を受賞。小説家としても11年、「ぬるい毒」で野間文芸新人賞受賞。短編集「嵐のピクニック」で大江健三郎賞を受賞。最新刊は「自分を好きになる方法」(講談社)。

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