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【タイガ-生命の森へ-】豊かな川 朝ご飯がすぐ釣れた

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【タイガ-生命の森へ-】豊かな川 朝ご飯がすぐ釣れた

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初雪の朝、狩小屋の前でハリウスを釣る猟師アンドリューシャ。猫も釣果を待っている=2013年10月4日、ロシア・クラスヌィ・ヤール村(伊藤健次さん撮影)  初雪の朝。夜明けと同時に狩小屋のベッドから抜け出す。

 重い木製のドアを開ければ、目の前にビキン川が流れている。シビれるほど冷たい川水でさっと顔を洗い、エゾマツに立てかけておいた釣竿を手にする。軒先で寝ていた黒猫がいつの間にか足元に寄ってきた。

 道糸の先には黄色い毛糸を巻いただけの大ざっぱな毛鉤。それを流れの奥に向かって思いきり投げ込む。

 ポチャン、と水しぶきが上がり、波紋が収まるのをひと呼吸待って、ゆっくりとリールを巻いた。

 ウキが勢いよく水中に沈む。慌てて竿(さお)をあおると、グンと心地いい手応えがあった。一投目からいきなりハリウスがかかったのだ。さすが。つくづく感心するのは釣りの腕ではなく、この川の良さにである。顔を洗って小屋に戻る前に、もう朝のオカズが釣れている。こんな理想的な川辺の小屋があるだろうか。

 ハリウスは長い背びれと虹色のうろこが美しく、白身のおいしい魚だ。うれしいのは僕ばかりではない。魚を岸に上げると、すかさず猫が飛びかかってきた。朝から猫まで釣ってしまうとは。やがて猟師のアンドリューシャが起きてタバコを一服すると、同じように竿を手に川岸に立った。黒猫が足元に座り川面を眺める。彼もあっという間に次々と魚を釣り、猫はまんまとお代わりを手にしたのだった。この何気ない狩小屋の日常こそが、かけがえのないタイガの魅力だと思う。

 ≪生きることの激しさと美しさ≫

 小屋のテラスには昨日までなかったアカシカの頭が逆さに置かれていた。昨夜ベテラン猟師のトーリャが獲ってきたのだ。

 一瞬ぎょっとするが、切り口の真っ赤な血と白い脂身のコントラストが鮮烈で、そこにカエデの黄葉が一枚、そっと張りついている。その姿はこの場にあまりに溶け込んでおり、残酷というよりむしろタイガで人や動物が生きることの激しさと哀(かな)しさ、そして美しさをひしひしと伝えてくるのだった。

 空から舞う雪が毛皮に積もり、その瞳に落ちてはとけてゆく。森のどこかで今も生きている鹿と、目の前で解体された鹿との境界が薄れていくような不思議な気がした。

 狩小屋では薪ストーブが焚(た)かれ、大鍋でアカシカのスープが煮込まれている。ニンニクをいくつも丸ごと投入し、ビーチャがジャガイモと玉ねぎを手際よく刻んで味を調える。アカシカはすでに生きものから食べものとなり、小屋はスープのいい匂いでいっぱいだ。

 そこに舟のエンジンの音が響いてきた。雪の中、クラスヌィ・ヤール村の猟師がロシア人の釣り客を案内して上ってきた。2隻で10人ほどの人間が加わると川辺は一気ににぎやかになる。珍しくホームステイ先の主人のゲーナが船頭をしている。そして普段お酒を飲むところを見ない彼が、これまた珍しくウオツカをひと瓶持って小屋に入ってきた。

 僕が「朝からウオツカはちょっと…」とためらっていると、「今日はお祝いだから」ともう皆にグラスを配っている。その日はゲーナの誕生日だったのだ。久しぶりに上流に来た彼はとてもうれしそうだ。ビシッと冷えたウオツカが注がれ、皆で乾杯して飲み干す。猟師たちは上機嫌で半袖になり、外の寒さと裏腹に小屋は朝から大きな笑い声と熱気ではちきれんばかりだった。

 また上流のハバゴの狩小屋には大きなアンテナがあり、小さなテレビが見られる。猟師たちは休んでいる時、天気予報やニュースはもちろん、映画やバラエティー-などさまざまな番組を楽しんでいる。日本のニュースも流れるので、タイガの奥で過ごす猟師が東京電力福島第一原発の事故の状況を実によく知っている。そしてチェルノブイリの事故を経験した国だけに、住民が受ける被害の深刻さや、どれだけ情報が隠されるかを熟知しているのだ。

 同じニュースでもどこを視座にするかでその重みや捉え方は大きく変わる。福島の原発事故やその後の原発政策はこの小屋から眺めると無責任さが際立ち、猟師たちの中で僕はいたたまれなくなる。タイガの日常を背に見る今の日本は、足元が危うい気がしてならない。(写真・文:写真家 伊藤健次/SANKEI EXPRESS

 ■いとう・けんじ 写真家。1968年生まれ。北海道在住。北の自然と土地の記憶をテーマに撮影を続ける。著書に「山わたる風」(柏艪舎)など。「アルペンガイド(1)北海道の山 大雪山・十勝連峰」(山と渓谷社)が好評発売中。

 ■ビキン川のタイガ ロシア沿海地方に広がる自然度の高い森。広葉樹と針葉樹がバランスよく混ざっており、絶滅に瀕したアムールトラをはじめ、多様な種類の野生動物が生息している。

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