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追悼 高倉健さん 「あるべき姿」 人生で演じた

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追悼 高倉健さん 「あるべき姿」 人生で演じた

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文化勲章親授式ため宮殿に入る高倉健(けん)さん=2013年11月3日、皇居(大橋純人撮影)  高倉健(けん)さんが亡くなった。83歳という年齢が信じ難かった。健さんは老いを見せず、格好いいまま逝ってしまった。

 印象に残る言葉も多い。例えば昨秋、文化勲章親授式の後で「日本人に生まれて、本当によかったと、きょう思いました」と話した。「今後も、この国に生まれてよかったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」とも話した。

 その機会が失われてしまったことを、心から惜しむ。

 数々の任侠映画に主演してスターとしての地位を築いた。東映退社後は、一貫して寡黙で不器用に、試練に耐える日本の男の美質を演じた。多くは再会や再生の物語であり、そこでは愛情や友情が描かれた。

 20代からの盟友、長嶋茂雄さんは「ファンの多くは映画の中の高倉さんを見て、日本人の男としてのあるべき姿を学んだのではないでしょうか」とコメントした。

 網走、八甲田山、南極など、厳寒の雪中で独り立つシーンが誰よりも似合う俳優だった。スクリーンの外でも、孤高の印象が強い人だった。

 半面、沢木耕太郎氏のインタビューには、ハワイが好きで、その理由を「人が温かいですね」と答えている(「貧乏だけど贅沢」文芸春秋社)。

 自身にもある、あり余る温かさが、多くの映画人や俳優仲間に愛された理由でもあるのだろう。訃報に触れて、各界の人々が自分だけの逸話を涙とともに披露した。そのほとんどが、高倉さんの気遣い、心配りについての話だった。

 妻に先立たれた刑務官を演じて遺作となった「あなたへ」のロケ中、刑務所を慰問。受刑者を前に「皆さん、一日も早く出所してください。あなたにとって大切な人のところへ帰ってあげてください」と語りかけて言葉に詰まるシーンが、追悼番組で何度も流れた。情の人でもあった。

 映画を見た人が肩で風切って「小屋」を後にした昔も、晩年の作品でも、誰もが彼のようになりたいと思わせる俳優だった。

 ≪風に揺れるハンカチ 日本中が悲しみに≫

 雪舞う夜空に揺れる無数の黄色いハンカチが哀しい。ハンカチは帰りを待つ目印なのだが、健(けん)さんは帰ってこない。

 映画「幸福の黄色いハンカチ」では、服役を終えた健さんが倍賞(ばいしょう)千恵子の妻が待つ家に帰ることを躊躇(ちゅうちょ)し、道中で出会った武田鉄矢と桃井かおりに背中を押されて家に向かう。実ははがきを出していた。「もしもまだ一人で待っていてくれるなら、黄色いハンカチをぶらさげておいてくれないか」。果たしてそこには、無数の黄色いハンカチがたなびいていた。

 健さんの訃報を受けて北海道夕張市の「幸福の黄色いハンカチ 想い出ひろば」は冬季の閉館を中断して営業を再開した。ラストシーンのままに、黄色いハンカチも掲げ直した。

 東映は各地の直営映画館や撮影所に献花台を設置した。大阪・新世界では任侠映画時代の健さんのポスターに、道行く人が足を止めた。ギラギラとした眼光が鋭い。

 映画「鉄道員(ぽっぽや)」のロケ地となった北海道南富良野町のJR根室線幾寅駅にも健さんのポスターが飾られた。雪の線路際に立つ。これほどこのシーンに似合う俳優はいない。

 健さんの訃報を伝える家電量販店などのテレビ売り場では、昔の街頭テレビのように多くの人が画面に見入った。

 CDや出演作のDVDなど、健さんの関連商品は品切れ状態が相次いだ。レンタルビデオ店でも各地で「貸し切れ状態」が続いている。

 一躍、脚光を浴びた少年もいる。東日本大震災で通信社が報じた被災地でがれきの中を「水を運ぶ少年」の写真を、健さんは「あなたへ」の台本に貼っていた。「宝物です。ぎゅっと気合が入る」と話していた。

 一方で健さんは写真の話をしたことを後悔していた。少年に手紙も送っていた。「私は君があまり注目されすぎてしまうことをのぞみませんでした。人生で一度しか味わえない子供時代を、できるだけ平穏に過ごしてほしいと願っているからです」

 健さんはどこまでも、見事なまでに「高倉健」であった。(EX編集部/撮影:大橋純人、共同/SANKEI EXPRESS

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