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妄信的なナショナリズムにも通ずる? ローカル文化の過剰な礼賛にやや辟易

安西洋之
安西洋之

 今、ローカル文化を熱く語る人が俄然多い。世界中どこでも、だ。グローバルな価値観が圧倒的に経済第一に傾き過ぎ、均一的な見栄えに「嘘」を感じ、小さな主語に誠実さを抱く。「メイド・イン・○○」の〇〇の部分は物理的範囲が小さいほどに価値がある。そういう流れなのだろう。 

 だからデザインの世界でもローカルにあるオリジナリティを強調する傾向にある。いわゆる文化の所在を曖昧にしたインターナショナルデザインがイマイチ劣勢である。

 「君のアイデンティティは何なの?」と聞かれたとき、「インターナショナルな土壌にあります」と答えるのは受けが悪いのだ。「世界中を旅してヒントをもらっています」なんて言えば、マイナー文化の盗用者であると宣言していると捉えかねない。

 各国の人が集まるパーティでは存在感を示すために自分の属する文化の民族衣装を着る、というのもローカル文化重視というコンテクストに入る。本人の文化アイデンティティやプライドとの面から肯定される…というか否定される理由がない。

 ただ、「あなた、日本人ならパーティは着物ですよ」と言うときの日本人とは何を指すのだろうか? 息子は日本人の両親の間にミラノで生まれて教育を受けているイタリア国籍だ。イタリアの服を着るべきか、日本の服を着るべきか。

 パリで生まれたフランス国籍のアフリカ系の人は、アフリカの服を着るべきなのか、フランスの服を着るべきなのか。

 もちろん、「べき」ですまないことは分かっている。自分の今を表現したいのか、自分の過去に抱く何らかの想いを表現したいのか、ということだろう。

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