「朝日ブックレット(93)後楽園に『天』をかける」(朝日新聞社)で、龍太郎は振り返る。「博覧会というのは一時的やから『テントをぎょうさん使ってもらえんやろか』と。(中略)『興味持ってもらわんといかんなあ』と膜構造物の設計コンペを主催しました」
一世一代の大事業
こうして若い建築関係者らを集めて研究会を作り、万博へのアピールを強めたころ、龍太郎の弟の博正も構造力学の権威だった東京大教授、坪井善勝の知遇を得て設計コンペの審査委員長を引き受けてもらい、さらに太陽工業の存在感は高まった。
「後楽園に『天』をかける」によると、70年万博に関わる多くの建築関係者から相談があり、会場で「新しいテントの9割以上、手前どもにご注文いただけた」と龍太郎は振り返る。パビリオンやゲート、休憩所の屋根などに膜面構造物が採用された中でも、直径4メートル、長さ78メートルのチューブ16本を連結した、ほろ馬車のような外観の富士グループ・パビリオンや、直径142メートル、短径83.5メートルのガラス繊維の屋根で覆った楕円(だえん)形ドームのアメリカ館は建築物の概念を打ち破り、来場者の注目を集めた。
太陽工業の技術開発担当だった磯野義人元常務(83)は昭和43年、大手ゼネコンの大林組社員らと渡米し、アメリカ館の設計事務所に通い詰めた。図面が大まかに仕上がって帰国すると、屋根に使う素材を実際に製造するための解析に取り組んだ。万博にかける龍太郎の思いは並々ならぬはずだったろうが、磯野氏を「しっかりやれよ」と淡々と励ましていたという。