当時、万博事業部の製造課長に登用され、枚方工場(大阪府枚方市)で延べ20万平方メートルの生地を使って、大小含めて計1216の膜面構造物の製造を命じられた薮野正年(やぶのまさとし)元専務(77)は、生地を自走式ミシンで縫ったり、専用機械で溶着したりする作業の指揮にあたった。一世一代の大事業だけに、龍太郎は深夜まで作業する社員らを気遣い、差し入れなどに訪れたが、薮野氏は「こっちは神経が高ぶっているから、話しかけられると迷惑だったこともあった」と苦笑する。
太陽のように
仕上がった膜面構造物は次々と万博会場で設営された。開会式前日の昭和45年3月13日は雪に見舞われ、パビリオンなどへの影響が懸念されたが、積雪に耐えた。また、半年間の会期中は台風でも壊れることはなく、太陽工業に対する評価はさらに高まり、龍太郎と博正は万博終了後に科学技術庁長官賞を贈られた。
大林組歴史館(大阪市中央区)に所蔵のアメリカ館の記録映像では、地面を掘り下げ、上部を約1万平方メートルのガラス繊維の屋根で覆ってから圧縮空気で膨らませる過程を見ることができるものの、太陽工業の貢献にはふれられていない。ただ、70年万博の開催に尽力し、今年2月8日に多臓器不全のため83歳で死去した堺屋太一氏は著書「地上最大の行事 万国博覧会」(光文社新書)で、龍太郎を「万国博覧会にも強い刺戟(しげき)を与えた偉人である」とたたえ、「万博会場のゲートや休憩所もテントで造れば半値になる」などと会期中だけの仮設の意義を説いたと振り返る。