問題解決が下位にあって意味形成が上位にあるわけでもなく、そもそも問題解決と意味形成と2つに区切っているのは、アプローチの仕方を明解に説明するためだ。実際には、両者は離れがたく関係しあっている。ベルガンティも上述の本のなかで、「意味のイノベーションは問題解決からスタートする」と記している。
しかしながら、問題解決が極めてテクニカルな領域であることが多いために、思索的あるいは内省的な要素が多い意味形成に「憧れ」をもちやすい。表現も具体的であるより抽象的である。そこで、このおよそ4年間、問題解決を「見下す」人が出没しやすいと感じた。
その次にどのような潮流がでてくるか? 問題解決と意味形成の両方をみることが全体像をみるに必要だ、との意見を言う人たちだ。ベルガンティも両方が必要であると語っている。が、それで全体像が見えるとは言っていない。
世の中には多数の見方がある。そのなかには相反するような見方もたくさんあり、これらを一緒にする、または「弁証法的に止揚する」というアプローチもある。ただし、たまたま対立するように見える視点の両方を使ったからといって全体像は見えない。
全体像を見るには、これまでに話してきたような分析的な見方だけでは叶えない。あえて視点でいえば山で自分の位置を知るように最低3つは必要だし、時間軸に基づいたエピソードの集積が欲しい。いわば、歴史も含めて風景を見るような態度だ。