更にいえば、その風景のなかで日常生活を営む人々の想いや考え、あるいはアイデンティまでをも「実感」することだ。それはちょうど、異なった文化を自分なりに実感し、解釈する行為に似せられるだろう。
言い換えれば、分析的なものの見方を相対化することによってしか全体像に迫れないはずだ。しかしながら、ぼくがみるところ、多くの議論は「分析的な見方の統合競争」に嵌っているような気がする。
どれだけ統合すれば全体像を把握できるか、という相変わらず分析的な層での厚みを増すことにばかりに集中している話が多い印象がある。もちろん、厚みが増すのはいいのだが、問題は「これで全体像が掴めた」と確信してしまうことだ。
これを誤解というのか誤謬と評すればよいのか分からない。しかしながら、これは全体像が分からないと不安にあるよりも始末に負えない。まずは、視点、見方、アプローチといった類は、あくまでも限定された言葉であることを認識しないといけない。一方、全体像は全体像で、主観的な要素も強い。
肝心なのは、当然ながら、こうした議論は科学的な証明を目的としているのではなく、何らかの行動を起こす確信を得るためである。前進するため、それもマシな前進をするためのロジックこそが求められる。
自分の分析能力が優れていると自慢したい人は別だが…。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。