「人力車の勇ましい音に驚いて、私は振返って見た。車上の人は艶色矯態、満艦飾の舞妓姿である。芝居の舞台と絵画とによって知っている活きた舞妓を初めて見たのである。(中略)もし、大阪から色街を取除けるものとせば、すなわち大阪マイナス花街、イクオール零である、と言い得るほど、花街の勢力は傍若無人であったのである」(『逸翁自叙伝』)
一三が二十一歳の八月、日清戦争が始まると、広島に大本営が置かれ、一三は大阪から広島への現金輸送に従事した。二十三歳の時、岩下清周が、大阪支店長として赴任してきた。岩下との出会いは、あらゆる意味で、一三にとっては巨きなものだった。
信州松代に生まれ、東京商法講習所に学んだ岩下は、母校で教鞭を執った後、明治十一年、三井物産に入社、アメリカ、フランスに在勤し、品川電灯会社を創立した功績で財界の信認を得て、三井銀行の支配人となった。
岩下の融資方針は大胆きわまるものであった。鉄商として名を馳せた、津田勝五郎に対して、たびたび巨額の当座貸し越しを見逃していた。また、これまで銀行が融資をしなかった、北浜の株式市場や堂島の米相場にも、資金を提供した。貸付係の一三は、いつもはらはらさせられた。
明治三十年、岩下は横浜支店に左遷された。藤田組への金融援助を三井銀行理事、中上川彦次郎に批判されたためである。岩下は、三井銀行を辞め、藤田伝三郎と北浜銀行を設立した。一三は、岩下の配下と目されており、当然、北浜銀行に行くものと見られていた。実際、同僚だった堂島出張所主任の小塚正一郎は、岩下の膝下についた。一三は、懊悩(おうのう)した。岩下は小塚を支配人に、一三を貸付課長にするつもりでいたらしい。
新しく大阪支店長として赴任した上柳清助からは、岩下の元に行くのか、三井に残るのか、態度をはっきりさせてほしいと要求されたが、一三は決められないでいた。結局、一三は貸付係から預金受付係に左遷されながらも、三井銀行に残った。
北浜銀行の設立者の最後
岩下は、北浜銀行の頭取に就任すると、財界に限らず、軍部の巨頭--山縣有朋、桂太郎、寺内正毅--とも深い関係を結び、衆議院議員となり、大阪を代表する政商となった。
北浜銀行は、大胆な融資で規模を拡大したが、大正三年、二回にわたって取り付けにあった末、岩下は背任横領に問われて有罪判決を受けた。
大阪一の料亭とうたわれた大和屋主人、阪口祐三郎は、大阪のために尽くしてくれた、岩下の名誉回復を企てた。
岩下の事業の中でも、生駒トンネルの開通は大事業で、当初、七十五万円の予算が三百万に膨らんだが、結局、為し遂おおせた。
「岩下さんという方は実に気の毒や。あんな人をほっとくのは、大阪人の恥や、自分のことは放っておいて、大阪に尽くした人やから、ぜひ、銅像を立ててあげたい。ひとつ協力してほしい」と、阪口は一三に持ちかけた。
一三は、趣旨には賛成したが、御遺族の意向が気がかりだった。
阪口が遺族にもちかけると、御厚意は嬉しいが……という返事だった。
債権者の問題などがあったのだろう。
阪口は、少女歌劇を最初に企画したのは、自分だと言っている。六十人くらい、芸者を抱えていたので、彼女たちを使って舞台をやったら、と考えていたら、一三に先手を打たれてしまったのだという。
阪急電鉄の前身となる鉄道会社を経営することに
明治四十年、小林一三は、阪鶴鉄道の監査役になった。阪鶴鉄道は、現在のJR舞鶴線と福知山線を経営する私鉄会社だったが、明治三十九年に公布された鉄道国有法によって政府に買収されることになっていた。
一三が阪鶴の監査役を務めた期間は短いものだったが、新しく大阪を起点とし、池田、宝塚、有馬を結ぶ電気軌道を設立しようとする計画が建てられた。一三は、土居通夫、野田卯太郎ら関西財界のお歴々を相手に、失権株すべてを自分ひとりで引き受けるという、大胆な提案をした。土居らは、一三が自分たちに一切迷惑をかけないこと、会社を解散する場合は株主に証拠金すべてを返し、証拠金五万円は一三が支払うという厳しい条件の下、新しい鉄道--箕面有馬電軌--の経営を一三に委ねた。
明治四十一年十月、一三は『最も有望なる電車』というパンフレットを一万冊、大阪市内で配布した。パンフレットは、問答形式で編まれている。
「箕面有馬電気軌道会社の開業はいつごろですか」
「明治四十三年四月一日の予定です、先づ第一期線として大阪梅田から宝塚まで十五哩マイル三十七鎖チエーン及び箕面支線二哩四十四鎖、合計十八哩一鎖だけ開業するつもりです、そして全線複線で阪神電気鉄道と凡(すべ)て同一式であります」
「それだけの大仕事が現在の払込金、即ち第一回払込金百三十七万五千円で出来ますか、それとも払込金を取るお考へですか」
「株主が喜んで払込金をする時まで払込を取らなくて屹度と開業して御覧に入れます」
まさしく、小林一三の面目躍如というべき企画である。当時、広く社会に会社の事業を公表し、賑やかに宣伝するといった経営者は、ほとんどいなかった。一三自身、このパンフレットこそ日本最初のパンフレットだと、自負していたという。
パンフレットの第二弾は、『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか(住宅地御案内)』と題されたもので、当初から一三が鉄道事業と不動産事業の結びつきを目指していることが解る。