岩田は、倒産したゲームソフト会社の社長を引き受け「大乱闘スマッシュブラザーズ」などヒット作を立て続けに開発して経営を立て直した。その手腕が買われ、任天堂の取締役に迎えられた。そして2年後に社長を引き継いだ。
一方の君島は国際派の銀行マン。誘われたのは、三和銀行ニューヨーク支店に勤務していたときだった。任天堂がまさに海外に飛躍しようとしていた時期で、山内を知る京都の金融機関幹部は「財務や海外に明るい人材を欲しがっていた」と語る。
「温めておられたプランに適していたのだろう。まさに運命だった」
君島は、関連会社役員に就き、2年後に米国の現地法人トップとして任天堂入り。山内は常々、君島に「分相応」を教え込んだ。後継者の番頭として期待していた節がみてとれる。
君島が米国の現地法人を指揮した10年余りで、任天堂は、「Wii」と携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」のヒットで空前の好業績を記録。09年3月期は売上高が過去最高の1兆8000億円を超え、海外比率が約9割。大半を最大市場の米国が占め、君島は任天堂の黄金時代を支えた。
ただ、君島は本社の戦略を忠実に実行するだけの現地責任者ではなかった。
見抜いた欠点
「WiiU(ウィー・ユー)はWiiに似すぎていて、失敗する」
12年発売のWiiUについて、米国時代の君島がこう喝破し、社内に激震が走った。
当時の超円高で海外で稼ぐビジネスモデルが揺らぐ中、任天堂は世界で1億台以上を売ったWiiの後継機で反転攻勢を期していた。しかも開発を主導するのは岩田だ。「失敗する」とは口が裂けても言えない雰囲気が社内にあった。