
日立造船が昭和40年ごろ建造していたタンカー。造船事業は後に本業から切り離した【拡大】
ただ日本鋼管との覚書の締結時、財務グループ長だった執行役員、鎌屋樹二氏(55)は「“祖業”を切り離すという対応策は当時、業界では想定外も想定外でした。ただ、何かやらなくてはいけなかった」と振り返る。
造船に代わる主力事業として社運を託したのが、ごみ焼却発電施設の事業だった。
生き残りの切り札
ごみ焼却発電施設は、廃棄物を燃やして衛生的に処理するとともに、エネルギー資源として発電もする。その事業の歴史は古い。
地元・大阪市では昭和30年代、ごみ処理施設が十分に機能せず、粉塵(ふんじん)対策が急務となっていた。こうした施設のメーカーは当時、国内にはなく、市はスイスのフォンロール社に依頼。同社は技術供与を了承し、そのパートナーに日立造船を指名した。