
さまざまなメーカーがPC開発を手掛けたことで1970年代にはキーボードも“多様化”した【拡大】
この論文を発表後、しばらくは音沙汰がなかった。和田氏自身も、この論文を書いたことすら忘れてしまうぐらいである。転機が訪れたのは95年。東京大学を定年退職した和田氏は、富士通研究所に在籍していた。富士通は当時、内部で1年に2回研究に関する成果報告会があり、そこにPFUの専務、新海卓夫氏が参加したのだ。
実は新海氏は、1970年代に和田氏と計算機を作るプロジェクトで一緒になり、面識があった。報告会の帰りにいろいろな相談をしていたのだが、92年の和田氏の論文を覚えていた新海氏は「このキーボードを実現するためにぜひPFUにお寄りください」と声をかけたという。
◆瞬時に500台完売
相談を受けた和田氏は、紙を切り貼りして作ったキーボード(の配列)を、当時、東京・町田にあったPFUに持って行った。「これなら(提案が)駄目になっても不思議ではない」と思っていたが、開発者たちは本気で作ろうと思っており、プロジェクトが開始。96年夏頃にはみるみるうちに製品が出来上がっていった。そして同年12月に、ワイド研究会に1台持って行ったところ大好評となり、500台だけ生産していたものがあっという間に売れてしまったという。
「二宮社長から巻頭言を依頼され、たまたまキーボードについて書いて、新海氏がそれを読んで覚えてくださり、コンセプトを持って行ったらプロジェクトが進んで発売になったというのは、まさに偶然に偶然が重なり合って生まれた製品ではないかと思う」。そう和田氏は振り返った。
HHKBは20周年という年を迎えるが、和田氏は「やはり一生使えるインターフェースというコンセプトがあったからこそ20年間続けられたのだと思う。PCは2年ぐらいで買い換えるのだが、インターフェースはプリミティブであったからこそ今まで生きながらえた。今日を迎えられたことを大変うれしく思う」と語った。