大連・弥生高女出身の作家、松原一枝(1916~2011年)の「幻の大連」にもダンスホール「ペロケ」のダンサーが連鎖街の公衆浴場に通う様子や喫茶店「マルキタ(果物店)」のエピソードが書かれている。女学生たちにとっては、ちょっと背伸びして憧れる魅力的な街だったのだろう。
東京ならば、さしずめ銀座か青山か…。いやいや当時の関係者の気概は、もっと大きかった。大連連鎖商店事務所が作ったパンフレットにはこうある。《東京の銀座、大阪の心斎橋以上であります。アメリカのフィフス・アベニュー(五番街)やブロードウエイなどと比べても見劣りは致しません》と。
志ん生・円生も出た劇場
その連鎖街にあった映画館が「常盤(ときわ)座」である。洋画専門映画館だが、歌舞伎や落語、歌手の公演もやった。再び当時のパンフレットを見てみよう。《モダーン、ドイツ式の建築…満州唯一の設備を備え、収容人員1200人、感じのよい廊下とバルコニーをもっております》
戦時中、慰問興行のため、満州に渡った落語家、6代目三遊亭円生(1900~79年)の自伝「寄席育ち」には、終戦直前の昭和20年8月13、14日の2日間、常盤座で落語をやったことが記されている。連載第1回でも書いたが、終戦後円生は、一緒に満州に渡った5代目古今亭志ん生(1890~1973年)とともに満州から帰れなくなり、そのまま大連に居続けるハメになった。