日本医学界の敗北
術後83日目。少年が容体を悪化させて死亡。死因は「急性呼吸不全」と発表されたが、この前後からさまざまな疑惑や批判が噴き出してきた。
「移植は必要ではなかった」。こう証言したのは、同じ札幌医大で少年を手術前に診断していた第二内科の教授だった。少年は小学5年の時にかかったリウマチ熱が原因で心臓弁膜症を患っていたが、移植が必要なほど症状は重くなかったというのだ。
少年の心臓は標本となったが、4つの弁が切り離され、1つは切り口が合わないことが判明。術前の少年の容体を隠すために何者かがすり替えたという証拠隠滅説までが持ち上がった。
和田自らが関わって脳死判定したことも疑惑を深めた。脳死の定義は世界的にも固まっていなかったが、少なくとも脳波消失の確認が不可欠とされていた。大学生が本当に脳死だったのかどうかを確かめようにも、脳波の記録さえ残されていなかった。
43年12月、大阪市の漢方医らが殺人罪で和田らを告発した。札幌地検が関係者の聴取などを進めたが、専門性の高い分野で捜査は難航し、医学界も和田らを擁護した。札幌地検は45年、「刑事責任を問うだけの証拠がない」として嫌疑不十分で不起訴処分とした。