「この仕事をしたら、会社を辞めてやる」。そんな気持ちで最後に取り組んだのが青色LEDの研究だった。1年半も社内の誰とも口をきかず、研究に没頭。平成5年、当時は不可能とさえいわれた青色LEDの実用化に成功した。世界初の偉業は米国の学会で脚光を浴びる。そこで知ったのが、日米の研究者の待遇の差だった。10を超える米国の大学・企業から誘いを受け、12年に渡米。研究環境が自由で「共産主義の国から、自由主義の国に引っ越した感じだった」。
一方、日亜化学とは青色LEDの特許権や研究成果の対価をめぐって訴訟合戦に。日亜側に200億円の支払いを命じた判決が話題になり、一時は“200億円男”とも呼ばれた。だが控訴審で約8億4千万円に減額され、和解が成立。「日本の司法は腐っている」と吐き捨てた。
自分が正しいと思うことは真っ向から主張し、容赦のない言葉を浴びせる。強烈な個性は米国向きとも評されるが、“闘争”を離れた普段の様子は穏やかで、気さくな人柄だ。和解金は税金と弁護士費用、住宅ローンで大半が消え、残りはアフリカの貧しい人に太陽電池を贈る団体に寄付したという。