36人の内、消息をたどれなかった一部を除き、当人か、当人が亡くなっていれば最も近い身内に話を聴いて回った。詳細な捜査資料のお陰(かげ)だった。例えば、代表部《本館二階見取図》には、各部屋の用途をはじめ《暗号室に通じる廊下》には《鋼鉄製ドアー(覗(のぞ)き穴あり)》、《暗号室、機関銃六丁備付》などと注釈が付けられ、高い捜査精度がうかがえる。
以下、印象に残る関係者(仮名)の証言を、平成7年末現在の年齢で再現する。
元大日本帝國(こく)陸軍大佐・花田正太郎(故人)の二女(64)と三女(56)の話は、まるで映画だった。昭和24年12月-
「小学校から帰ると、消息不明の父が、ロシア人の着るモコモコの外套を着て、GHQ(連合国軍総司令部)のジープで突然帰宅していた」(三女)
花田は終戦後、ソ連に抑留されていた。だが、完全な平穏が戻るのはまだ先だった。25年5月、日系二世の男が花田家を訪れる。男と出て行った花田は、2カ月近くも戻らなかった。目隠しされ、グルグルと都内を回されどこかに連れて行かれたとかで、帰ってきたときには憔悴(しょうすい)しきっていた。その後、またも見知らぬ男が訪れる。三女が続ける。
「梅雨時で雨がザンザン降る日曜の夜。玄関のブザーが鳴るので出ると、目の前にレインコートを着た、赤ら顔でザンバラ髪の大男が、全身グッショリ濡れて立っていた。悲鳴をあげた。カタコトの日本語で『静かにしろ。花田はいるか』と言うや、土足で上がってきた」