【BOOKWARE】
骨董なんてわかってしまったらもう持っている必要なんかない。焼き物は見るものでなく観じるものだ。ヴァレリーが井戸茶碗を見ていたらヨーロッパも変わっていただろうね。俺は日本の文化を生きているんだ。これが青山二郎なのである。
青山が一貫して見抜いていたことは、「作家は美を作っていない、美はこれを見た者が発見する」ということと、「日本とはいったい何なのか」ということだった。この青山の強靱な眼力に、小林秀雄・大岡昇平が屈服し、北大路魯山人・勅使河原蒼風が対峙し、白洲正子・河上徹太郎が叱られた。世に「青山学院」の授業という。
ぼくは青山二郎に出会えていないので、その授業を文章から憶測するしかないのだが、読めば読むほど、意地悪いほどの美の狂暴ともいうべき「眼」を感じてきた。なにしろ「美は見、魂は聞き、不徳は語る」と言ってのける男なのだ。これがもう少し青山学院ふうになると、たとえば「眼に見える言葉が書ならば、手に抱ける言葉が茶碗なのである」というとんでもない悶絶にまで至る。