かつて、それは許されざることだった。ウルトラマンの背中のジッパーは見えないものとして扱われたし、ディズニーランドのキャラクターから洩れ出す吐息も世界に存在してはいけないものだった。けれど、ふなっしーは違う。サッカー大会で足元が破れ、足指が見えても誰の夢も壊さない。人々は最初から、「ふなっしー」というペルソナを被った誰かの一挙手一投足を楽しんでいる。
どこかから借りて来たような宣伝文句を連呼するご当地キャラクターの言葉より、一人称全開で無責任に船橋を語る「ふなっしー」にシンパシーを感じるのは、政治や自治体の言葉が地域住人に通じなくなってきている話題と交錯する。ただ、素顔を晒したお笑い芸人が、このテンション、この動き、このしゃべりでも、ここまで受けることはなかっただろう(好き嫌いは別にして、江頭2:50を超えることはない)。やはり、「ゆるキャラ」であることが重要だったのだ。
「ふなっしー」の仮面を被った1人の誰かによって、「ゆるキャラ」の染みだし領域は確実に広がった。顔を見せて話せないことを、その着ぐるみの中なら語れるという、新しい自己の外的側面を生み出す装置にすら、今や「ゆるキャラ」はなっているのである。
ここまで来ると、芸の領域だから、あとは本人の技術とパフォーマンス次第なのだろう。誰も、5年後に彼がいるのかはわからない。けれど、キャラクターをまとったコミュニケーションがより活発になって、有象無象の緩くない「ゆるキャラ」がもっともっと誕生してくるのは、間違いなさそうだ。(ブックディレクター 幅允孝(はば・よしたか)/SANKEI EXPRESS)