魚雷艇の艇長が、若きケネディ中尉であった。最高速度41ノット(時速76キロ弱)を誇るが、帝國海軍による航空偵察を警戒、機関音を抑制すべく3基のエンジンの内2基を停止して、1基で減軸運転していた。米側記録によると、突然の会敵で増速が思うようにいかぬ魚雷艇の甲板では、乗組員が火力強化のために特別に換装した対戦車砲に砲弾を装填(てん)しようと焦っていた。
基準排水量1680トンの鋼鉄艦が38トンの木製艇に「衝撃戦法」を仕掛けたのだからたまらない。魚雷艇は真っ二つに引き裂かれる。13人の乗組員の内2人が戦死した。
ケネディは、負傷者を命綱で縛りその端をくわえて、部下を励ましながら、5時間かけて5キロを泳ぎ、小島にたどり着く。ハーバード大学時代は水泳の選手で、泳ぎには自信があった。少しでも友軍に近付こうと島から島に泳ぎ渡る。5日目に上陸した島で、原住民と出会う。ケネディはナイフで椰子(やし)の殻に文字を彫って、友軍の基地に届けるよう身ぶりで伝えた。
《11人生存。場所はこの原住民が知っている。ケネディ》
斯くして、追悼式まで挙行された11人は7日目に救助される。大統領に就任したケネディは、ホワイトハウスの執務室にこの椰子の殻を飾っている。