私が部屋を探しているお客を装い、不動産屋の男性に出されたスリッパを履いて、一歩足を踏み入れたとき、ジャングル御殿が「やっと来てくれた」と壁を揺らして喜んだのが分かった。私は毎日わが家のリビングから眺めていた窓のほうへ近づき、そこから自分の家を眺めた。あそこから何度、私はこの部屋のことを考えただろう。できることなら、内見のあと、自分が入居の契約をしてあげたかった。だが、部屋の家賃はとても高く、手の出る額ではなく、どうすることもできなかった。
私はさよならを告げて、次の家へ引っ越した。
彼はもう別の入居者を迎え入れてしまっただろう。私も、忘れたほうがお互いのためなのだ、と言い聞かせて、新しい部屋に必死でなじんだふりをしている。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS)
■もとや・ゆきこ 劇作家、演出家、小説家。1979年、石川県出身。2000年、「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。07年、「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を受賞。小説家としても11年、「ぬるい毒」で野間文芸新人賞受賞。短編集「嵐のピクニック」で大江健三郎賞を受賞。最新刊は「自分を好きになる方法」(講談社)。