≪門戸開放 新たな文化生み出す境界線≫
奈良や京都に都があった時代には、都の罪人は、吉野山を経由して、大峯奥駈(おくがけ)道を通って和歌山へと流刑されたそうだ。歴史上、かくも多くの人々が、なぜ吉野山を目指したのか。そのことで僕の頭はいっぱいになった。
吉野の地を訪れて感じることは、弱き者、従わぬ者に対して、門戸が大きく開かれているという感覚だ。南北朝時代の戦に負けて、権力に屈服せざるをえなかったという、700年も前の記憶が、今も残っているのかといわれれば、それは僕の想像をはるかに超えてしまっている。しかしここに流れる空気が、寡黙で気高いことだけは確かだ。
生命観に満ちた吉野山の桜も、実はこのまま放っておけば数十年後に枯れるといわれている。少しでも力になりたいと、僕も保全活動に参加しているのだが、その活動にしても、観光客への門戸を閉ざすのではなく、まずは来て感じてもらい、活動に参加してもらおうというスタンスをとっている。その根幹にある開かれた精神は、今も昔も変わらない。