だけど、けれども、それはけっしてそうした能動的な理由ばかりではなく、受動的な合理性もあっただろうし、もっと言うと、その決定にいたるまでの過程は、昔の権力は権力者の生理や肉体に直結し、それには性も深く関係していただろうから、合理的なように見えて、その実、根本には理屈で説明のつかない感情の現れとしてあるのではないか、なんて思えてくる。
人の心の動きと同調して
のは、もちろん、この本を読んだ/読んでいるからなのだけれども、そう思うとき、その道路や鉄路を通行するとき、私たちは自らその道や路線を選んでいく。そのとき、路線検索みたいに、最短時間とか最短距離とか最安とかで選んでいるように思うのだけれども、実はそもそもの道がそんなだからそうではなくて、もっと感情的な理由で選んでいる、というか、選んでいるのではなく、実はもう歴史的必然として、和田一族が最後あんなことになったように、実朝が最後あんなことになったように、いろんな人が最後あんなことになるように、ドラッグストアやら卸売団地やらが並ぶ田舎の、或いは、ホテルやらオフィスやらが並ぶ都心を、或いは川沿いの遊歩道を、もうそこしか往くところがない、というか、そこを往くしかない、という感じで歩いているのではないか、なんて思えてくる。