「カギはきれいな結晶づくりにある」。そう確信して助手を探そうとしていた矢先、話を聞きつけ、募集直前にフライングで飛び込んできたのが、当時、24歳で名古屋大大学院生の天野氏だった。
「この若者はやる気がある。絶対にあきらめない。私と同じだ」。赤崎氏と天野氏は「切っても切れない仲になった」。2人は一心不乱に研究。深夜もこうこうと明かりがともる赤崎氏の研究室は「不夜城」と呼ばれた。
「作りやすいものは壊れやすいが、作りにくいものはその分タフだ」。実験は失敗が続き、逆境に置かれたが、信念を曲げない赤崎氏を中心に、研究室の結束は固かった。
「先生との出会いが運命を変えた」と話す天野氏は「先生の考え方がわかるからあきらめず粘り強く実験ができた。大学の自由な校風も研究にプラスだった」と振り返る。
「芸術的な手腕だ」
そんな2人を「競争者」として追いかけていたのが中村氏だった。
「徳島県の田舎で自由に研究できたことが大きかった。抜きつ抜かれつつ、切磋琢磨(せっさたくま)し、最後は3人で同時にゴールできた」と語った。