当時のわれわれのスカウティングでは、松坂投手はアジア地域で4番手に過ぎなかった。1番手は後にヤンキース入りする台湾の王建民投手。そして、松坂投手より日本人で上の3番手につけていたのが沖縄水産高の新垣渚投手(現ヤクルト)だった。
新垣投手は98年の夏の甲子園で当時大会最速の151キロを計測。荒々しい投球フォームは、すでに完成されて伸びしろが少ないとみられていた松坂投手よりも、アメリカ人好みだった。九州共立大からダイエー(当時)に自由獲得枠で入団し、3年連続で2桁勝利を挙げた。だが、その後はけがもあって伸び悩んだ。制球に苦しみ、武器だった荒々しい投球フォームが小さく矯正されてしまった。日本人1番手の評価を下していただけに、今後の奮起に期待したい。
希少性高い左腕
大会後に大きく伸びた選手もいる。その一人が鹿児島実高から三菱重工長崎を経てダイエー、巨人で活躍している杉内俊哉投手だ。
夏の大会では八戸工大一高相手にノーヒットノーランを飾るも、評価は低めだった。カーブに見るべきものがあったが、直球は130キロ出るか出ないか。夏の大会後にAAAアジア選手権の日本代表に選出されたものの、登板はインドネシアやモンゴルといった野球の途上国との対戦のみ。それほど期待されていたわけではなかったが、今や沢村賞に輝く左腕になった。