『和田塚は建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍(しかばね)を埋葬した塚として今日まで伝承されている』
建保元年は1213年。和田義盛は源頼朝の側近で、初代別当(侍所長官)を務めた鎌倉幕府重鎮。北条義時は鎌倉幕府の第2代執権となった北条氏の実力者だった。
和田合戦は頼朝の死後、幕府中枢の権力バランスが崩れ、北条氏が実権を握っていく過程で起きた政変であり、和田一族はこの合戦で滅亡する。ただし、和田塚のある場所は古墳時代の円墳跡で合戦と直接の関係はなく、明治時代の道路工事の際に大量の人骨が見つかったことから悲劇の地の伝承につながったようだ。(編集委員 宮田一雄/SANKEI EXPRESS)