舞台公演「BLUE」は、青森大学新体操部と青森山田高校男子新体操部のメンバーも活躍。通常なら個人競技で使用されるスティックを手にして力強い群舞を披露した=2015年1月24日、青森県青森市堤町の「リンクステーションホール青森」(田中幸美撮影)【拡大】
そんなに強い選手ではなかった。完璧な演技をこなしていたのに最後の最後でリングをフロア外に大きく飛ばして減点されるなど、どちらかというと失敗してしまうタイプの選手だった。だから2位どまり。「またやっちゃいました」。屈託のない明るい性格だった。サービス精神が旺盛で、いつも仲間を笑わせる人気者だった。
「お前みたいなヤツは競技ではなくて、プロとしてパフォーマンスしたり人を笑わせたりするのが向いているんじゃないか」。ほどなく、荒川さんの知り合いの社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」でパフォーマンスを披露するようになった。新体操のプロ第1号だ。新体操のプロを誕生させるのが夢だった荒川さんにとって期待の星だった。
そんな彼を病魔が襲った。舞台に立てなくなり、故郷の岩手に帰って療養しながら、それでも舞台にかかわりたいと照明の仕事を始めた。そのころの口癖が、「BLUE」公演のサブタイトルにもなっている「新体操で舞台を創りたい」。その後病状が悪化し2009年夏、帰らぬ人となった。わずか27歳の若さだった。