しかし私は布団をめくりあげ、ベッドから身を起こす。「お父さん、どうかしたーん?」と寝ぼけ眼を擦りながら、ベッドから危なっかしげに降り立ち、様子をうかがっている犯人のほうへ歩き出す。そんなことができるのは、目の前のものにまるで焦点をあわせずに近づく技術を、この日のために身につけていたおかげだ。そして、犯人の息がかかるほど近い距離を、堂々とすり抜けた私は「もー静かにしてよー」と廊下に向かって一声掛けたあと、悠々と自分のベッドに潜り直す…。「犯人の顔を目撃していないと、犯人に思い込ませる技術」である。
役立つならば…
だが結局、私が誘拐犯に、茂みに潜む男に、不法侵入者に遭遇することは一度もなかった。よかったと思う半面、あの技術は今も衰えていないのに、これでは宝の持ち腐れであるような気がしてならない。