節電の面影はなく
発電機が作動して、撮影が再開できることになり、文明の利器に改めて感心したその時に、現場一帯が光を取り戻した。停電が解消されたのだ。スタッフたちからため息がもれる。無駄足を踏んだわけだ。しかし何とかして撮影を進めようとする情熱はしっかりと私たちの胸に響いた。
それにしても街は明る過ぎる。節電をうたった4年前の面影はすでに消え去ってしまったようだ。必要以上の電気に照らされた人々がうごめく街。夜。と声に出したところで瞬く間に喧騒(けんそう)にのまれてしまう。はっきりと夜なのに、夜は電気にのまれてゆく。
などと書いておきながら、15年ほど前に公共料金の支払いが滞り電気を止められてしまったとき、私は東京電力の人を待ちながら、日暮れとともに光がうせてゆく冷え込むアパートの一室で、本も読めず、ただ横になって、まったくこれは恐ろしいことだと感じたのだ。電気を奪われることは恐ろしい。恐ろしいと知った上で、夜と電気のもっと上質な関係が生み出せないものなのかと思うのだ。