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【九州の礎を築いた群像 西鉄編(11)】住宅事業 リストラ車掌らの熱意で街が広がった 「やり始めたら一気にやれ!」
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「中間連結決算は、不動産事業で分譲マンションの販売戸数が増加したことなどにより増収増益となりました。マンションが好調である状況を踏まえ、通期の業績予想も上方修正します。純利益は過去最高の96億円になる見通しです」
11月7日、福岡市中央区の福岡証券取引所の記者会見室。就任後初めての中間決算発表に臨んだ西日本鉄道(西鉄)第17代社長の倉富純男(60)は、淡々と説明したが、その表情には自信がみなぎっていた。
アベノミクスの追い風を受け、上半期(4~9月)のマンション販売戸数は前年同期比40.7%増の183戸を記録した。住宅事業、わけても分譲マンションは西鉄の成長株だ。平成24年度の住宅事業の売上高は201億円となり、20年度の137億円から1.5倍に増えた。主要事業でもっとも伸び率が高い。
倉富が経営企画本部長時代に取りまとめ、3月に発表した「第13次中期経営計画」(25~27年度)でも、シニア向けマンションなど住宅事業を成長の柱の1つに据えた。西鉄の命運を握る事業といえるが、注力するようになったのはそれほど昔の話ではない。
昭和40年、第9代社長の楠根宗生(1901~1989)が開発部(分譲住宅と賃貸ビル事業)を新設したのが始まりだった。
「何とか他で稼ぐ方法を見つけないと西鉄は生き残れないぞ…」
楠根が開発部を創設したのは、収益の2本柱だった路面電車(現在全廃)と路線バスが極度の不振に陥ったからだった。昭和30年代後半からの急速なマイカー普及により、路面電車の乗客数は36年から、路線バスは39年から、それぞれ減少に転じた。
その一方で福岡市周辺の人口増加は著しく、住宅需要は高まっていた。「天神-大牟田などの鉄道沿線を宅地開発すれば必ず売れるし、鉄道の乗客も増えるはず…」。楠根の頭には、阪急電鉄創始者、小林一三(1873~1957)の手法があったようだ。
最初に手がけたのは、西鉄宮地岳線(現貝塚線)花見駅前の宅地造成「花見団地」(29区画)。41年4月1日に売り出すと即日完売した。不安を抱えながらこの日を迎えた楠根や担当社員は「快挙だ!」と祝杯をあげた。
44年3月には西鉄史上最大の南ヶ丘団地(大野城市)が完成した。45万平方メートルに1118区画を造成したが、こちらも購入希望者が殺到し、抽選による販売となった。
当時、住宅事業を支えたのは、路面電車やバスの元車掌たちだった。ワンマン化や路線廃止で余剰人員となり、配置転換を余儀なくされた面々だ。「俺は何のために西鉄に入ったのか」と忸怩(じくじ)たる思いがあったに違いない。
それでも彼らは着慣れた制服をスーツに着替え、用地買収や営業活動に靴底をすり減らした。地主の農家に日参し、時にはコップ酒を持参、畑仕事の終わりに一緒に酒を酌み交わした。集落の慰安旅行にお手伝い役で同行する者もいた。
そんな素人集団の熱意に地主たちもほだされたのだろう。「西鉄さんがやるんだったら」と宅地開発は円滑に進み、開発部発足から5年目の44年度には14億2千万円を稼ぎ出した。開発部も不動産事業局に格上げされた。
沿線人口の増加を受け、天神大牟田線と貝塚線の乗客数は、40年に9903万人だったのが、45年に1億387万人、50年には1億2110人となった。
それでも、不動産事業局の社内の地位はなお低く、本業の運輸部門の赤字を穴埋めする「副業」と見なされた。50年代に入ると分譲マンションも手がけたが、51~56年に4棟(計148戸)建てただけで中断してしまった。鉄道の高架化や商業施設の建設を重視したからだ。住宅事業が主要部門にのし上がるのは平成3年以降の話である。
「既存の考え方にとらわれるな。これからはマンションの時代だ。どんどん売って住宅事業の売上高を倍に増やしちゃる!」
平成3年6月、大屋の命を受けて常務・不動産事業局長に就任した横尾康裕(故人)は部下を酒に誘っては熱く説き続けた。
といっても横尾の社歴はバス一筋で、不動産はずぶの素人だった。それでも前任のバス担当の取締役時代には、「高速バス年間売上高100億円計画」をぶちあげ、九州外に路線拡大。昭和63年度に60億円だった売上高を5年間で100億円に押し上げた。
横尾は、バス事業の責任者でありながら、不動産事業の「副業」扱いに不満を感じていた。
「住宅はもっと伸びるはずですよ!」。横尾が役員会で意見したところ、久々のワンマン経営者となった第12代社長、大屋麗之助=12月5日、90歳で死去=はこう言い放った。
「そこまで言うならお前がやってみろ!」
この一言で横尾の不動産事業への抜擢が決まった。この頃、大屋の肝いりで進めた西鉄福岡(天神)駅周辺開発「ソラリア計画」は軌道に乗り出していた。大屋が「次の一手」と考えていた住宅開発を任せるには、自分以上に「いけいけドンドン」の横尾が適任だと考えたようだ。
横尾が不動産事業局長に就任した平成3年は折しもバブル崩壊の年だった。景気の減速感が広がり始めていたが、横尾は「九州各地からの福岡市への人口集中はまだ続く。勝算はある」と踏んだ。横尾は就任直後、朝日新聞の取材にこう語っている。
「(不動産事業は)もっとも成長している分野だ。これまで培ってきた基盤に加え、さらに事業拡大を図るなど、自前の強気で勝負したい」
「やり始めたら一気にやれ!」。これが口癖の横尾はまず、独自のマンションブランド「サンリヤンシリーズ」を立ち上げた。サンリヤンとは、英語の「太陽」(SUN)とフランス語の「明るさ」(RIANT)を組み合わせた造語。スペイン語の「太陽」(SOL)とイタリア語の「空気」(ARIA)を合わせた「ソラリア」もそうだが、西鉄はこういう“無理やり感”の漂うネーミングが大好きなのだ。
第一弾は、平成6年10月の「サンリヤン月の浦」(49戸、大野城市)。西鉄にとって実に13年ぶりのマンションだったが、即日完売だった。自信を深めた横尾は、大野城、春日、小郡など天神大牟田線沿線を中心に毎年200~400戸のハイペースでサンリヤンマンションを建設した。
国鉄民営化(昭和62年)で誕生したJR九州もマンション事業を本格化させていた。天神大牟田線とJRの鹿児島線は並走しており、必然的にマンションでも競合した。
高速バス事業でもJRと激しいバトルを繰り広げた横尾は「負けてなるものか!」と執念を燃やした。ついには古巣のバス部門の和白営業所(福岡市東区)を隣の新宮町に移転させ、跡地とその隣接地にサンリヤンマンション6棟(計260戸)を建てた。
こうした積極策により、平成3年度に54億円だった住宅事業の売り上げは、5年目の7年度に100億円に「倍増」、11年度は166億円となった。
だが、そんな絶頂期の平成11年6月末、横尾は突然退任してしまう。
「次は市場が大きい東京だ」と横尾は東京進出に意欲を燃やしていたが、西鉄首脳陣は首を横に振った。横尾は部下に「面白くない!」と言い残して去り、その後、19年4月に死去するまで表舞台に戻ることはなかった。
現在、サンリヤンマンションは福岡県内を中心に計122棟、5658戸に達し、福岡県民にはおなじみの存在になっている。
横尾がマンション事業で快進撃を続けた時期、バブル崩壊による地価低迷により、宅地開発事業は苦境に陥っていた。
「今のままではデベロッパーとしての将来がない。宅地を分譲するだけでなく、自分たちで家を建て、街を作るべきです」
平成7年、戸建て住宅課長に就任した鈴木信一郎(62)=現専務・住宅事業本部長=が、横尾にこう進言してゴーサインをもらったのが、小規模な建売住宅地「サニーヴィラシリーズ」だった。
従来のような数百区画の住宅団地では、用地買収から造成完了まで10年前後を要する。この間に地価が下落すれば、販売価格も下げざるを得ない。そこで区画数を20戸以下に抑えて用地買収から造成、住宅建設までを1年間ほどでやってしまおうと考えたのだ。
電鉄会社がこのような中小デベロッパーの領域にまで手を染めるのは珍しい。
だが、鈴木の戦略は当たった。第一弾として8年10月に発売した西鉄大牟田線大溝駅(福岡県大木町)近くの「サニーヴィラおおみぞ」を皮切りに完売が相次いだ。「西鉄ホーム」というハウスメーカーを名乗ったことも「西鉄さんなら、いい加減な物件は売らないはずだ」と顧客に安心感を与えた。
手応えを感じた鈴木はサニーヴィラを次々に売り出した。12~17年の福岡県内での戸建て分譲住宅の着工戸数は、大手住宅メーカーを抑えて6年連続で1位に輝いた。
当時は「失われた20年」の真っ只中。全国の景気が冷え込む中で事業を拡大できたのは、糸島、筑紫野両市などを含めた現9市8町の福岡都市圏が右肩上がりで広がり続けたことも大きい。国勢調査によると、平成7~17年の10年間の国内人口は1.7%増にすぎなかったが、福岡都市圏は9・6%増(20万4573人増)という驚異的な伸びを示している。
西鉄はそんな都市圏拡大を下支えしたといえる。鈴木はこう語る。
「土地の売買だけで街は出来ない。私たちは住宅まで責任を持って建てます。街を作っていく。それが西鉄の誇りなんですよ」
沿線人口の増加に伴い、天神大牟田線ではラッシュ時の乗車率が150%を超えた。これに伴い、西鉄は輸送力増強に取り組んだ。
天神大牟田線と貝塚線の年間乗客数が1億4千万人を超えた平成4年度には、福岡(天神)駅ビルを大改造する「ソラリアターミナルビル」の工事が始まった。ビル2階部分の駅ホームは、8両編成対応から10両編成向けに拡張した。この結果、ラッシュ時の輸送力を23本・143両から24本172両に増やした。
拡張工事は200人前後の社員が毎日、終電後の午前0時過ぎから始発前の午前5時ごろまで作業にあたった。新生・福岡駅が営業を始めた9年9月27日、電車局営業運転課長として現場指揮にあたった柳信治(63)=後に常務・鉄道事業本部長、現西鉄ステーションサービス会長=は、始発電車を見送ると「よくも大きな事故もなく出来たもんだ…」と胸をなでおろした。あまりの疲労感に仲間と大喜びする気にもならなかった。柳は後輩にこうエールを送った。
「西鉄は運輸部門や不動産部門が一体となって地域の発展のために働いてきた。東京一極集中が進む中、その役割はますます大きくなるでしょう」
(敬称略)