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【未来への伝言】荻田伍 アサヒグループホールディングス相談役(3)

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【未来への伝言】荻田伍 アサヒグループホールディングス相談役(3)

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 ■1985年にビールの神様が降りた

 《阪神21年ぶりの奇跡に救われる》

 「状況が厳しくなるなか、私たちは毎晩ビールを飲んでいました。昼間がどんなにつらくとも、夜みんなでワイワイと飲むとイヤなことを忘れ、明日に向かえる。ビールとは元気が出る酒なのです。アサヒの社員は、明るくて元気なやつばかり。厳しい環境のなかでも、みんなの絆は強く結ばれていました」

 ただし、現実は厳しく凋落(ちょうらく)に歯止めはかからなかった。問屋からの注文が減ると、『あの料飲店がやられた(他社のビールに切り替えられた)』とわかるようなありさまとなる。ビール需要が拡大する1980年代前半、アサヒの販売数量は伸び悩む。その結果、競合のシェアが上がるなか、アサヒのシェアはジリジリと下がり続け、84年はシェア9.7%に落ちる。翌85年は過去最低のシェア9.6%にまで落ち込んだ。それでも「夜になれば、みんなで飲み、『アサヒを推奨販売してくれる問屋さんや酒販店さんに申し訳ない』『応援してくれる得意先のためにできることは何でもやろう』などと明るく朗らかなアサヒのDNAは絶えることがなかった」。

 こうした状況に変化が起きる。その変化は、「ガンバレ!阪神タイガース」缶の売れ行き好調だった85年4月17日の夜。阪神甲子園球場で、巨人軍のエース槙原投手から、阪神のバース、掛布、岡田がバックスクリーンへ3連続ホームランを放ったのだ。甲子園球場では当時、ビールはアサヒしか販売していなかった。“バックスクリーン3連発”で勢いを得た阪神は、シーズンを激走。21年ぶりに優勝を果たす。満員の球場では連日、アサヒは大いに売れた。さらに、以前から球場外でも販売していた同デザイン缶はこの年、過去最高の売り上げを更新したほどだ。

 「1985年はアサヒにビールの神様が降りた、と今でも思います。21年ぶりの阪神の優勝が、当社の一番苦しい時期を救ってくれました。どんな状況でも一生懸命やっていれば、いいことは必ず起こるものなのです。だから、決して諦めてはいけません。苦境から逃げてはいけない」

 翌86年には、通称“コクキレビール”の「アサヒ生ビール」が新発売となる。このコクキレビールは久しぶりにヒットを飛ばし、低迷するアサヒのシェアは底を打つこととなった。シェアは再び10%台に回復する。「商品が売れる喜びを思い出し、そして何よりもアサヒを応援してくださる得意先への感謝の気持ちを、改めてみんなが味わいました」

 「今の時代とは異なる流通の状況下、アサヒを推奨販売してくださる得意先との結束力は、さらに高まりました。今思い起こすと、頑張っても思うように売れない厳しい時代の経験は、営業マンの成長の糧となっていたのだと。また、得意先との強い結束力がいかに大事であるかを学びました」

 87年以降に、本当の意味で“売れる”ことを体験することになる。

 《スーパードライとドライ戦争》

 ヒット商品の代名詞でもある「スーパードライ」は、87年3月に当初は首都圏限定で発売される。が、すぐに全国販売に切り替わる。荻田氏は86年に九州支店営業第一課長に異動となっていた。九州でスーパードライが発売されたのは87年5月中旬である。「すぐに全国展開したトップの決断力、スピードはすごかった。『チャンスは貯金できない』と樋口さん(廣太郎社長=当時、故人)は話していました」「また、“売れる”という実感を我々は得た。自分たちの知らないところで、商品が売れていくのです」

 スーパードライは初年度1350万箱(1箱は大瓶20本)売れる。それまでの新商品販売記録は、86年発売のサントリー「モルツ」が打ち立てた約185万箱。

 88年にはライバル3社が「ドライビール」を相次ぎ投入するが、スーパードライの独り勝ちで終わる。アサヒのシェアは87年が12.7%、88年は20.1%となり、同19.9%のサッポロを抜き2位に浮上する。スーパードライは単に売れただけではなく、市場そのものを拡大させる。発売前年の86年に対し94年の市場はほぼ1.5倍に成長したのだ。

 奇跡の大ヒット商品だったが、難問も山積していた。(ジャーナリスト 永井隆)

【プロフィル】荻田伍

 おぎた・ひとし 1942年、福岡県飯塚市生まれ。65年九州大学経済学部卒、アサヒビール(現アサヒグループホールディングス)入社。2003年アサヒ飲料社長、06年アサヒビール社長、10年会長、11年アサヒGH会長、14年から現職。12年から経団連副会長。

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