--浜松でなぜピアノや軽自動車、オートバイを始めとするパイオニア企業が数多く生まれたのか
「一般的には『やらまいか(やってみよう)精神』ということになるが、その根底には土地柄がある。旧浜松藩は5万石程度の小藩で、藩主も頻繁に交代した。安定しないがゆえに『自分たちがしっかりしなければ生きていけない』という気持ちが強く、それが『やらまいか精神』を形作ったのではないか」
--地場産業の存在も大きい
「浜松は綿花の一大産地で綿織物が盛んだったので、織機などの機械を作る職人が数多くいた。鍛冶屋でも指物師でもいいのだが、技術のある職人たちの間に、新しいものを作り出そうという機運が高まっていて、西洋文化が入ってきたことをきっかけに『これなら自分にもできる』とさまざまな製品作りに取り組んだ。『あの人にできるなら自分にもできるはずだ』とか、『浜松で一旗揚げよう』という人も現れ、連鎖反応のように数多くの企業が生まれたのだろう」
--ヤマハにとって浜松の魅力は
「浜松は創業の地であることはもちろん、浜松だからこそできることが数多くある。当社ぐらいの規模の企業は、東京では“one of them”の存在かもしれないが、ここにいることで、それなりの規模感で事業を進めることができ、優秀な人材も集まっている。楽器といえばものづくりだが、浜松にはものづくりにたけた人が数多くいて、彼らの力を得たことで当社はここまで発展できた」
--東京で難しいことは何か
「『私たちは、音・音楽を原点に培った技術と感性で、新たな感動と豊かな文化を世界の人々とともに創りつづけます』という企業理念を掲げている。その実現のためには、直近のことに限らず、ある大きな流れの中で物事を見たり考えたりする必要がある。その意味で、それが東京の良さの一つでもあるのだが、東京は案外テンポが速いような気がする」
「東京は日本の中心で、国内市場がよく見えるのかもしれないが、われわれは地方にいたことで、より海外に目を向けることができたと思う。1958年に初めてメキシコに海外法人ヤマハ・デ・メヒコを設立した」
--地の利をどう感じるか
「昔は東京に行かないと情報に取り残される心配があったが、今では東京で起こっていることの多くをインターネットで知ることができる。浜松は東京にも大阪にも等距離で移動できる位置にあり、まったくハンディを感じない。また、徐々に海外にシフトしてはいるものの、当社は高級品や日本の技が必要な製品を浜松近郊の工場で生産している。メーカーとして、工場に近い場所に(本社を)立地することが、現場や現物を大事にするという意味で、ものづくりに有利だと考えている」
▽【浜松物語】オルガンからピアノ、半導体まで自社製造 「素人ゆえの新発想」…中田卓也ヤマハ社長(中)
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【プロフィル】中田卓也
なかた・たくや 慶大法卒。1981年日本楽器製造(現ヤマハ)入社。ヤマハ コーポレーション オブ アメリカ社長、ヤマハ上席執行役員などを経て、2013年6月から現職。56歳。岐阜県出身。