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筋を通した生き方、行動で示して教えてくれた父 漫画家・竹宮惠子さん
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「父は多くを語らないけど、漫画家を目指す私を見守ってくれていました」と話す竹宮惠子さん=京都市左京区(恵守乾撮影) 少年の多感な思春期を描いた『風と木の詩』、宇宙を舞台とした『地球(テラ)へ…』など漫画史に残る名作を生み出す漫画家の竹宮惠子さん(64)。先月、終戦から約29年間、フィリピン・ルバング島の山中で潜伏生活を送った元陸軍少尉、小野田寛郎さんが91歳で亡くなったとの訃報に接し、胸が熱くなった。「小野田さんと父は重なるものがあるんです」
父、義一さんと小野田さんは陸軍中野学校二俣分校で同期だった。日本の敗北が色濃くなった終戦間際、起死回生を懸けてゲリラ戦術を学ぶことを主な目的として設置された学校で、生き残ってゲリラ戦を続けるよう教育された。小野田さんがフィリピンから帰国した昭和49年3月、「仲間を迎えに行く」と空港まで出掛けたほどだ。「潜伏という事態が起きるのはあり得る。われわれは、たとえ戦争が終わっても1人で戦え抜けと教えられたのだから」。義一さんはそう話していた。
戦争中、義一さんはインドネシアで、軍事訓練を指導する立場にあった。
終戦後は連合国軍の捕虜となり、1年後に帰国。「戦争については多くを語りませんでしたが、何事にも規律正しく、背中に一本、筋が通った人でした」
竹宮さんは3つ年下の妹との2人姉妹。「男の子がいなかったからか、私はどこか長男のような扱われ方をされ、中学生になるとテレビの時事的な話題の背景を分かりやすく教えてくれました」と振り返る。
幼い頃から絵を描くのが得意だった竹宮さんは、17歳で漫画家デビュー。地元の徳島大学教育学部(現鳴門教育大学)在学中に連載が決まり、出版社から東京に呼ばれ、ホテルに缶詰め状態で原稿を描いた。
東京の情報量の多さに驚いた竹宮さんは、大学を辞めて東京に住みたいと考えるようになり、父を説得。すると、父は一言、「行ってみるか」。娘が夢見ている漫画の世界に対し、自分が何かを言える立場ではないことを理解し、そっと背中を押してくれた。
漫画家として道筋が見えてきた7年後、中退したつもりでいた大学が、実は休学中であることを知って驚いた。「両親の配慮で私には内緒にしていたようです。長いスランプから抜け出た後に知ったのですが、その時期に聞いていたら大学に戻っていたかもしれません」
昭和55年に小学館漫画賞を受け、受賞パーティーに義一さんも出席した。「漫画界の重鎮、手塚治虫さん、石ノ森章太郎さんもいらして、父は喜んでくれたようでした」
竹宮さんには忘れられない父の姿がある。20歳、いよいよ東京へ旅立つ日、徳島駅まで送ってくれた父から求められた握手。「照れくさかったけれど、独り立ちしていく私へのリスペクトを感じました」。そのぬくもりに支えられて今の自分がある。(横山由紀子)
俳優の笠智衆さんにすごく似ていて、優しげな雰囲気なんだけど、ピシッとしていたお父さん。筋を通した生き方を言葉ではなく、行動で示して教えてくれました。
たけみや・ぎいち 大正10年、徳島市生まれ。陸軍予備士官学校、陸軍中野学校二俣分校を卒業後、インドネシアの軍事訓練の指導などに従事。終戦後、1年間、連合国軍の捕虜となり、復員、建設会社などに勤務。平成7年、74歳で死去。
たけみや・けいこ 昭和25年、徳島市生まれ。徳島大学教育学部(現鳴門教育大学)中退。17歳で、集英社『マーガレット』の新人賞に佳作入選し、デビュー。代表作に『風と木の詩』(小学館漫画賞受賞)、『地球(テラ)へ…』(同)、『イズァローン伝説』『天馬の血族』などがある。平成12年から京都精華大学マンガ学部教授を務め、26年度から学長に就任する。