まるで「下町ロケット」みたいだ… 東芝の下請け町工場を脱して生き残る道
配信元:PRESIDENT Online 更新「私が継いだときは、ブラウン管はまだ売れていましたが、将来を見通して液晶・プラズマテレビ向けの検査装置の開発に取り組んでいました。00年に初号機を1台約2000万円で初受注しましたが、半年後の2号機の提示価格は700万円。韓国や台湾の装置メーカーがそのぐらいの価格でやるので、との理由だった。きっと薄型テレビも、半導体と同じ命運をたどるだろう。もはやディプレイ業界では生き残れないと感じました」
会社を引き継いだときには、借入金はほとんどない優良財務体質だったが、資金繰りに余裕があるわけではない。このままでは、いずれジリ貧に陥ると岡田氏は考え、約10人の社員を前に「うちの会社に残された時間はない。新商品を開発しない限り、生き残る道はない」と宣言、業態変換を目指すことにした。
しかし、これまで優秀な東芝の下請け企業として安定した受注をもらい、業績も堅調だったため、新社長が変身を宣言しても、社内はそれを真に受けてくれなかった。このままでは会社が存続できないことを伝え続け、社風を変えるために、中途採用も強化することなどで、企業文化を変えることから始めた。
