ニュースカテゴリ:EX CONTENTS
スポーツ
【鈴木明子のHAPPY SKATING】摂食障害と闘った10年前の夏
更新
夏の恒例となった福岡での飯塚杯に出場しました。地元の人たちから「今年も来てくれてありがとうね」と感謝の言葉をかけてもらいましたが、私にとっても思い入れの強い大会です。自宅に張ってある1枚の写真。リンクから遠のいた私が復帰したときの飯塚杯の写真です。
10年前の夏。私は摂食障害に苦しんでいました。
地元の高校を卒業して初めて親元を離れて仙台市にある東北福祉大に進学。現在もコーチを務めてくれている長久保裕コーチの家に下宿することになりました。
身長160センチで体重が48キロだった私は、少しだけ体重を落とそうと思いました。いま振り返れば、食事を制限する中で自己管理への意識が強くなりすぎてしまいました。
「先生のところに行ったのだから、ちゃんとやらなくちゃ」。自分にプレッシャーをかけ続けたのです。
そんな中で食欲が次第になくなっていったのです。最初は体調が悪いのかなと深刻には考えませんでした。
食事を控えることで体重が少し減りますよね。そうすると、体重が戻ることが怖くなるのです。本来はスケートの演技を向上させるためにコントロールするはずの体重だけに敏感になっていきます。
食べることが怖くなり、体重は入学から1カ月で10キロも激減。油っぽい肉などを避け、おなかが減ってスーパーに行っても何を買っていいのかわからず、食品コーナーを見て回るうちに食欲がなくなり、サラダだけ買って帰っていました。
長久保先生も心配して、私を食事に連れていってくれたり、料理を作ってくれたりしました。
環境を変えるために1人暮らしを始めましたが、食欲は戻りませんでした。5月の大型連休に自宅に戻り、母に連れられて病院に行ったときにはもう摂食障害の状態でした。
食事を受け付けず、無理やり食べたら吐いてしまう。胃が拒否反応を起こし、消化ができない状態…。「これはやばいな」と思ったときには手遅れなのが、この病気の怖いところです。
体重は32キロまで落ちました。脂肪がないので冬でもないのに体は寒気を感じ、血圧を安定させる薬の服用も欠かせなくなりました。体力がないので、気張らしに自宅周辺を散歩しただけで疲れてしまいます。医師からは30キロを切ったら入院しなければならないと告げられました。
不思議なもので、そんな状態でもスケートを滑ることを考えていました。摂食障害の治療は長期で、入院をすれば競技に復帰することも難しくなります。私はなんとか自宅療養で治したいと考えました。
このときに衝突したのが母でした。「スケートとか言っている場合じゃないでしょ」。そもそも、どうしてこんなことになったのか、母には理解できなかったと思います。実家に戻ってきた当初は、母もとにかく何か食べさせなければいけないと必死だったと思います。
そんな母が、次第に私の気持ちに耳を傾け、最後は受け入れてくれてくれました。「この子と一緒に治していこう」と思い、それまで「食べなさい」と言っていたのが、私に食べれられるものを聞いてくれるようになりました。「豆腐でもヨーグルトでもフルーツでも好きなものを食べるところからやっていこう」。栄養価を気にせず、私にそう言ってくれました。
食べるという当たり前のことができない自分を責めていた私は「母がこんな自分を受け入れてくれた」と胸が熱くなりました。少しずつですが、快方に向かったのはこのことが転機でした。食欲が少しずつ戻り、母が作ってくれた料理を食べる私を見て、母が泣いていた光景は今も鮮明に覚えています。
私が入院しないと決めたとき、母は私のことを失う覚悟もしたそうです。「もし、そうなったら、周りからはばかだと責められただろうね。でも、私がこの子を守り、戦うんだ」と決意したと振り返っていました。
体重がなんとか38キロまで戻ったその年の秋、仙台へ戻ることがかないました。それでも、すぐにスケートができるわけではありません。
長久保先生から40キロに戻るまではリンクに立たせてもらえず、外を歩いたりして体力を回復させました。10月にリンクに戻っても、最初は筋力がないので自分の体すら支えることができませんでした。
シニアデビューの年だったのに予定していた国際大会もキャンセル。年が明けて1月の大学生の大会でようやく復帰できました。そして、夏の飯塚杯でファンの皆さんの前で演技できるまでになったのです。
その当時は、28歳になった私が五輪を目指しているとは想像もつきませんでした。ただ、スケートをあきらめたくないという気持ちがあったから、病気に打ち勝つことができたと思っています。
そして、何より母という存在があったから。同じように病気と闘っている人たちには、夢を持ってほしいですし、そのことが生きる希望になることを忘れないでほしいです。
もちろん、成功談を押しつけるつもりは全くありません。私自身もどん底のときには、病気を克服した人の話を聞かされても受け入れられなかったでしょう。それでも、私の体験がいつの日か、立ち直るきっかけになってもらえれば幸いと思っています。
いまは競技人生の集大成としてソチ五輪を目指していますが、残りの人生でたくさんの時間があります。その中で、少しでも病気と闘っている人たちをサポートしていく活動ができないかと考えています。(SANKEI EXPRESS)