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ウクライナ 治安部隊とデモ隊衝突 不満爆発 葬られたレーニン像

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ウクライナ 治安部隊とデモ隊衝突 不満爆発 葬られたレーニン像

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反政権集会が開かれている首都キエフ中心部の独立広場でにらみ合う治安部隊とデモ隊=2013年12月11日午前5時ごろ、ウクライナ(佐々木正明撮影)  欧州連合(EU)との連合協定見送りをめぐり反政権運動が続くウクライナの首都キエフで取材している。12月11日には、治安当局が野党勢力の一大拠点である独立広場の封鎖を進め、未明に治安部隊が大量動員、デモ隊側は「人間の鎖」を作って抵抗した。野党勢力によると、十数人が拘束されたという。11日午前に治安部隊のほとんどが撤収し、正面衝突は免れたものの、30人以上の負傷者が出た。

 独立広場に設置されたステージでは連日、野党勢力の演説や反政権派のアーティストらによるコンサートが行われている。

 (12月)8日には、ウクライナ独立の際にも取り壊しを免れたウラジーミル・レーニン像がついになぎ倒された。

 倒壊して2時間後ぐらいに記者もレーニン像があるタラス・シェフチェンコ通りに向かった。到着すると黒山の人だかりができていた。気温は0度以下。小雪舞う夜にもかかわらず、現場は熱気に包まれていた。

 すでに台座の上には、EU旗とウクライナの国旗が翻り、台には「次はヤヌコビッチ大統領だ」との横断幕が掲げられていた。頭部はすでにどこかに持ち去られたようだ。

 レーニン像はウクライナがソ連の構成共和国だった頃の1946年に設置された。長らく共産主義のシンボルとして、キエフの街に君臨し、91年の独立直後も、歴史的記念碑として価値があると判断され、取り壊しは免れていた。

 しかし、この記念碑に対して、憎しみを感じる人も少なくなかった。ウクライナは第二次大戦のとき、スターリンの弾圧と当時の飢餓により、5人に1人がなくなったとされ、その後もソ連の抑圧政策により、多くの市民が苦しんだ過去を持つ。

 ≪「革命だ」「栄光あれ」 沸き上がる歓声≫

 9年前の「オレンジ革命」の際にも、像は生き残った。しかし今回、反政権運動の高まりを受けて、ついに市民の力で葬られたのだ。

 なぎ倒される様子は、地元テレビ局で生中継された。ソ連の後継国家、ロシアとの関係を重視するヤヌコビッチ大統領への強いメッセージとなったのは間違いない。

 最初、私は地面に落ちた像に近づけなかった。しかし、台座のハシゴのところで理由を説明すると、若い男性が「おい、日本からのジャーナリストだ。あけろ、あけろ。ハシゴに上がらせてやってくれ」と叫び、ハシゴに上ることができた。

 多くの人が代わる代わるハンマーを手にしては、怒りをレーニン像にぶつけるようにハンマーを打ち下ろした。そして、砕け落ちた破片を拾い始めた。カチン、カチンという音とともに、「革命だ」「ウクライナに栄光あれ」「盗賊ども(現政権に群がる一部の利権者たち)は去れ!」との声が沸き上がった。

 もちろん、レーニン像が倒されたからといって、この国の社会状況がよくなるわけではない。しかし、人々は「ようやくウクライナは独立できる」「私たちはロシアにはくみしない」と口々に叫んで、心から喜んでいるようだった。破片を手にした男性は「独立の記念だ」と話した。

 翌(12月)9日の夕方、再び現場に赴くと、依然としてものすごい人だかりだ。市民らはそれぞれハンマーや金づちを持参して、レーニン像をたたき割っていた。

 時折、台座を蹴飛ばす人や、「ざまあみろ」などと罵詈(ばり)雑言を浴びせかける人がいた。キエフでは、こうした行為に対して「民主主義ではない。破壊行為だ」との批判もある。

 ウクライナのデモは、EUとの統合路線の棚上げが直接の原因となったが、それはきっかけにすぎず、人々の不満は、低迷する経済やロシアの圧力などさまざまな側面を併せのんで拡大した。(モスクワ支局 佐々木正明、写真も/SANKEI EXPRESS

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