ニュースカテゴリ:EX CONTENTS
トレンド
私の背中を見つめた一本釣り映画少年のこと 長塚圭史
更新
結局のところ本を眺めているか、少年の予想通り酒をくらってばかりの正月(長塚圭史さん撮影)
大みそか、昨年(2013年)話題となった『舟を編む』なる映画を借りて観たいと近所のTSUTAYAへ行くと、20本近くの在庫が全て貸し出し中であった。非常に残念ではあったのだけれど、こういった浮ついてない様子の邦画が一般的に求められているという事実には非常に満足。思い切り別の作品を借りてやろうと散策する。劇団☆新感線の演出家であるいのうえひでのり氏から薦められていた『セデック・バレ』の太陽旗篇、虹の橋篇がどちらも借りられた(1930年、日本軍統治下の台湾で実際に起きた原住民の反乱を描いた歴史大作)。いのうえひでのり氏はとにかく映画も芝居も驚異的な本数を観ており、時折酒席などご一緒させていただくと、それが偶然的な酒であっても必然的であっても、さまざまな情報を教えてくれ、それこそ氏に「これはほとんど圭史の世界」と薦めてもらった作品で、実際完全に私のフェイバリットとなっているものもある(デヴィッド・クローネンバーグ監督『ヒストリー・オブ・バイオレンス』です。傑作です)。ともあれそんないのうえ氏大推薦の作品を見つけ出すことができたのは幸いである。他にもがさごそと数本借りて、いや、実際これほど映画漬けになるような正月にはならないのであろう。が、それなりに選択肢もあった方が楽しいので迷わず借りてしまう。
こういうのを大人借りというのだろうか。例えば1本の映画を本気で探している映画少年は、それこそやっぱりどうしても観たかった『セデック・バレ』の後編(虹の橋篇)を、それ1本のみを狙ってやってきていたのに、実はまさに間一髪で私に奪われてしまい、それからぶらぶらとギャング映画やら、サスペンス映画やらいい加減な様子で次々手にしてゆく私の背中を、「どうせ正月は酒ばっかりで、1週間の間にそんなに何本も観られないくせに」と、砂を噛むような思いで睨んでいるのだろうか。しかし安心したまえ。一本釣りの映画少年よ。私は元日の夜にしっかりと『セデック・バレ』を前編後編共に堪能したのだ。確かにそれ以外には1本しか観られずじまいではあったが、君が観たかったそれはしっかりと私も観たのだと言いたい。架空の少年に何を弁明しているのかわからないが、とにかくそんな気持ちでいっぱいである。
おそらく私の中にもこの「大人借り」のような振る舞いに些(いささ)かの違和感を抱いているためなのかもしれない。もちろん職業上、資料となる本をどっさり購入したり、図書館から山と借りてきたり、周囲の目などもろともせずにかき集めることもあるのだが、日常生活に戻って改めて考えてみると、現時点で本当に望んでいるものが何なのか明確にできずに、ただいたずらに自分に猶予を与え、寧(むし)ろ時間を浪費しているだけなのかもしれないとも思えてくる。お金さえ払えばクリックひとつで何でも手に入るような時代になって、それでも私は本屋へ行くことや、映画を借りに出掛けることはやめまいと、こうして肉体を使ってやってきている。それにしては思考が足りないのかもわからない。
現実に足を運ぶということで、予測できない空間が生まれ、思いもよらない作品と出合える可能性については私も理解しているし、それを楽しみにしている。しかしそうした出合いを慎重に味わいもせずにいたずらにカートに放り込んでしまってはネットショッピングと大して変わらない。比較対象が大量にある中で自分が手にしたものを吟味し、果たしてこれが新年さっそくに観たい作品なのかどうかをしっかりと見極める。どさどさと借りて後になってだらだら自宅で選び直すのではなく、ある程度の計画の元に的確な判断を下す。そこで敢えて余白としてプラスの1本というのであれば、いやまあ、それくらいであれば許容しましょう。
そんなややこしい思いをしてレンタルなんぞするものかという意見も十分にわかります。ただ膨大な映画作品が目の前にあって、私という人間一匹がそこにあって、それでひとつの作品を手にするというそのことに、その瞬間の煌めきに、もう少し光が当たってもいいのではないか。そんなようなことを、架空の一本釣りの映画少年の瞳を前に、考えてしまったのかもしれません。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS)