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【溝への落とし物】密かな想い 本谷有希子
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旅先で訪れた美術館で、気になった宗教絵画たち=2014年1月4日(本谷有希子さん撮影) 先月まで住んでいた家の目の前には、道を挟んで1棟の低層マンションが建っていた。
小さな庭があるものの、坂道の傾斜のせいで、1階にある部屋はうちから丸見えの状態だった。昼間でもレースのカーテンが閉め切られており、そのすき間から観葉植物と、キリンのぬいぐるみの尻が突き出されているので、私はそこを「ジャングル御殿」と心の中で名付けていた。
こちらから見えるということは、御殿からもわが家のリビングの様子を観察できるということになる。それなのに、私は安心しきっていた。きっと、キリンのぬいぐるみの尻が「こんなものを突き出させる人が、悪い人間ではないはず」というイメージを、私に植え付けていたのだろう。
ある夜、ジャングル御殿の窓からすべてのカーテンが取り払われていた。住人が引っ越しの際に消し忘れたのか、電気がつけっぱなしで、見える部屋はどれももぬけの殻だった。私はリビングの窓際に立ち、ここに越してからずっと想像していた、開かずの窓の向こう側を凝視した。
高級低層マンションだけあって、中は新築のようにぴかぴかだ。キリンだけじゃなく、サバンナに生息する動物のぬいぐるみが所狭しと置かれ、緑の鬱蒼(うっそう)と生い茂る部屋に違いないと思っていただけに、ワックスで磨き上げられた床の照り返しはなんだか少し物足りなかった。
拍子抜けした。が、これでわが家も人の目を気にせずに済むのだと自分に言い聞かせた私は、それから2カ月ほど、「もう誰も入居しなければいいな」と得も言われぬ解放感を味わいながら過ごした。見つかることもないので、リビングでくるくると回って踊ることもできた。
そして、管理人に連れられて内見に来る人々の気配を感じるたび、私はリビングのレースのカーテンを揺らし、「ここに人がいますよ」というささやかなアピールも怠らなかった。そのおかげもあって、4カ月が過ぎても御殿は空き室のままだった。半年が過ぎてもだ。管理人がどれだけ掃除をし、窓を開けて換気をしても、新たな入居者の気配はなかった。
部屋にはなぜか時々、夜に煌々(こうこう)と電気が灯(とも)された。人のいない部屋を一晩中、明るくしておく必要がどこにあるのか分からなかったが、がらんとした部屋の電気は妙に私を惹き付けた。黄色みがかった照明が目の端に入ると、誰かいるかもしれないと息をこらし、いないと分かると、ほっとした。やがて、自分の中に向かい側の部屋への愛情が芽生えていることに、私は気づいた。あそこに誰も住もうとしないのは、部屋が私のために空き室でいてくれているからなのだ、と思い至ったのだ。
しかし、それから数カ月後、今住んでいる家を私のほうが引っ越さなくてはいけなくなってしまった。
私は寂しさでいっぱいだった。あれから私と部屋のあいだには、愛情らしきものがはぐくまれ続けていたのに。
引っ越しの3日前、私は近所の不動産屋に出向き、ずっとずっと自分の中で抑え続けていたことを実行した。
私が部屋を探しているお客を装い、不動産屋の男性に出されたスリッパを履いて、一歩足を踏み入れたとき、ジャングル御殿が「やっと来てくれた」と壁を揺らして喜んだのが分かった。私は毎日わが家のリビングから眺めていた窓のほうへ近づき、そこから自分の家を眺めた。あそこから何度、私はこの部屋のことを考えただろう。できることなら、内見のあと、自分が入居の契約をしてあげたかった。だが、部屋の家賃はとても高く、手の出る額ではなく、どうすることもできなかった。
私はさよならを告げて、次の家へ引っ越した。
彼はもう別の入居者を迎え入れてしまっただろう。私も、忘れたほうがお互いのためなのだ、と言い聞かせて、新しい部屋に必死でなじんだふりをしている。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS)