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【逍遥の児】石川啄木終焉の地

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【逍遥の児】石川啄木終焉の地

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 夭折(ようせつ)の歌人、石川啄木(たくぼく)。春の週末。東京都文京区小石川を目指す。地下鉄丸ノ内線茗荷谷(みょうがだに)駅で下車。団平坂を下っていく。ひとつ東側の道の途中。白い5階建てのビル。壁に表示板。「石川啄木終焉(しゅうえん)の地」。ここか。ここで啄木は死んだのか。静かだ。ひっそりとしている。

 啄木は神童といわれた。少年時代、岩手県渋民村(現・盛岡市)で暮らし、旧制盛岡中学へ。地元の小学校代用教員を務めたあと、北海道を流転する。志を立てて上京。明治歌壇の新星としてさっそうと登場した。

 しかし、肺結核を患った。1911(明治44)年8月、この地の借家へ家族と共に引っ越した。満足に仕事ができない。収入が途絶える。極貧の生活を送った。

 旧制盛岡中学時代からの友人、金田一京助が訪れた。やせ衰えた啄木は横たわっている。診療代も薬代もない。米すらないという。金田一は、なけなしの10円札を差し出した。啄木は黙って受け取る。片手を出して拝んだと伝えられる。

 歌人の土岐(とき)善麿が書き残している。死の4、5日前のことだった。啄木が「金がもうない。歌集を出すようにしてくれ」と頼む。土岐はすぐに出版社に行って交渉し、話がまとまった。

 啄木は枕元の妻に「おい、そこのノートをとってくれ。その陰気な」といった。ノートには約200首の短歌が記されていた。最後の歌集「悲しき玩具」となった。

 その原本である直筆ノートが限定出版された。十数年前、わたしは岩手県の石川啄木記念館で入手した。いまも大切に保管している。筆跡が生々しい。添削した部分も。病が深まるにつれ、文字が弱々しくなっていく。

 さて、臨終の日。1912年4月13日。歌人、若山牧水が立ち会った。幼い娘は、危篤であることも知らず、表に出て桜の花びらを拾って遊んでいた。牧水は幼子を抱きかかえて帰る。午前9時30分。死去。26歳。

 立ち尽くし、啄木の生涯を思う。帰路。桜並木で知られる播磨(はりま)坂へ。桜花は散っていた。薄桃色の花びらが路上に舞う。悲しげに。(塩塚保/SANKEI EXPRESS

 ■逍遥 気ままにあちこち歩き回ること。

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