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社会
被災地で芽生えたジャーナリズムの原点
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週刊「大槌新聞」を発行する、おらが大槌夢広場の会議風景。右端が菊池由貴子氏=2014年2月28日、岩手県上閉伊郡大槌町(渡辺武達さん提供)
日本の近代史は大きな「災害」を3度経験している。1つ目は、第二次世界大戦という戦災、2つ目が神戸・淡路大震災(1995年1月17日)で、3つ目が東日本大震災(2011年3月11日)である。第二次大戦は、執権層の国際状況の見誤りという意味では人災であり、阪神淡路大震災は自然災害的側面が強い。東日本大震災は地震・津波・原発事故の複合災害で、哲学者の梅原猛氏の言葉を借りれば、「文明災」の側面が大きい。その点でも、今後の日本と日本人の進路に大きな影響を与えた。
神戸では美しい夜景とモダンなファッションの街が一瞬にして失われ、赤子を背負った母親が川べりでおむつの洗濯をし、水を求める人が破裂した水道管から漏れ出る水を手ですくって飲んでいた。筆者は当時、NTTを中心とした情報労連近畿の顧問をしており、彼らが必死に情報ネットワークの復旧に献身的努力をしたことをつぶさに見て知っている。
だが、それでも市民が必要とする情報の確保は難しく、避難所ではファクス通信や手動輪転印刷機を使ったガリ版新聞、外国人労働者向けの現地語ラジオなどが頼りにされた。また、後に「ボランティア元年」とも呼ばれるようになる無償の協力精神が根づき、東日本大震災では、市民の自発的な「つながり」による情報提供という形で生かされた。
筆者も東北の被災地でインタビュー調査をしたが、市民の生命と財産を守るために、地方紙大手の河北新報(仙台市)をはじめ、地元メディアのすべてが獅子奮迅の働きをし、被災者の支えとなった。石巻日日新聞(宮城県石巻市)では、津波による水没を免れた新聞用巻紙を使い社長以下全員で手書きの壁新聞を作って貼り出し、情報のライフラインとなった。宮城県山元町で立ち上がった緊急地域災害FM「りんごラジオ」は、東北放送を定年となった元アナウンサーの高橋厚氏が私財をなげうちそのノウハウを生かし、町民や役場と協力して、情報の命綱の役割を果たした。
こうした文字通り、能(あた)う限りの手段を用い、住民が必要とする情報を提供する姿勢は、ジャーナリズムの原点回帰として、世界中に知れわたった。
岩手県大槌町でも、一人の女性が大手新聞ではどうしても抜け落ちる地元住民の求める情報を提供するため、A3用紙の裏表を使った週刊「大槌新聞」を立ち上げ、今や町民にとってなくてはならない存在となっている(大槌新聞 創刊者・菊池由貴子氏 発行・一般社団法人おらが大槌夢広場復興館 縮刷版問い合わせ・(電)0193・55・5120)。
日本新聞協会が発行する年鑑や横浜にある新聞博物館内の掲示説明には「戦時中の新聞は軍部権力に言論の自由を蹂躙(じゅうりん)された」という被害者的説明がある。しかし、それは戦前の大手紙やNHKが自らの意思で戦争をあおった面があることを隠している。そのことを、いち記者として恥じ、勤務していた大手紙を辞した、むのたけじ氏(99)は、故郷の秋田県横手市へ帰り、日本人は何を考え、どう行動すべきかを伝えようと、地元で週刊新聞「たいまつ」を発行し続けた。
その言動の背景には「貧乏人が貧乏であるのは、貧乏人の責任である以上に世の中のしくみのせいであるから、これは断固として改革されねばならない」(むのたけじ氏著『たいまつ十六年』=岩波書店=)という社会認識があった。それは宮沢賢治にも共有されていた社会観だ。それは、大槌新聞を創刊した菊池氏にも通じる東北人の魂であろう。
大槌町は人口の一割近くを津波で失い、当時の町長も少なからぬ役場職員とともに犠牲になった。現町長の碇川豊氏は破壊され尽くされた古里を「逆境から発想する町」と位置づけ、活動を展開している(碇川豊氏著『希望の大槌』=明石書店=参照)。
そのプロジェクトの一つとして、町民の相互理解と対外情報発信を目的とした「大槌メディアセンター」(仮称)が構想された。筆者もその助言を依頼されているが、被災地で芽生えた新たなメディアの胎動として注目される。こうした官民一体となった情報運動が、その時代を記録していくことは、ジャーナリズムの原点の確認することにもつながるだろう。(同志社大学社会学部教授 渡辺武達(わたなべ・たけさと)/SANKEI EXPRESS)