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【野口裕之の軍事情勢】第一次大戦、日本も欧州で闘っていた…日本人従軍看護婦の活躍
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日中戦争の最中、万歳に送られて中国戦線に赴く従軍看護婦たち。その源流は第一次世界大戦時に欧州に派遣され、現地で激賞された「救護看護婦」だった=「明治100年の歴史」(講談社、提供写真) 安倍晋三政権は女性活躍の場を増やそうとしている。女性活躍推進法案も審議入りしたが政策・法律整備だけでは効果は限定的だろう。女性に限らぬが、やっぱり使命感は尊い。手元に日本赤十字社熊本県支部編纂の《竹田ハツメ展 史料集》が有る。後に旧制熊本医科大学看護長となる竹田ハツメさん(1881~1973年)は第一次世界大戦(1914~18年)中、日赤熊本県支部から選ばれ、日赤創設以来初めて欧露に派遣される救護班の一員となる。第一次大戦は近代的兵器で鎧われた堅牢な野戦要塞と鉄道での物資・人員輸送により防御側有利→持久戦となり、武器弾薬の生産・補給施設など戦場外や、鉄道・船舶=民間人も使う輸送手段も標的と化した。従って軍人・軍属に民間を含めた死者は1700万前後、負傷者を加算すると3700万以上に達した。英国人ジャーナリストは戦場を「肉のミンチ調理器具」、野戦病院勤務の米国人看護婦は戦死傷者を「人間の残骸」とまで形容した。人類が経験したことのない国力を総動員した《総力戦》において、目を背けたくなる患者や血の臭いと闘った日本人看護婦の、強烈な使命感や職業意識は実に誇らしい。
大日本帝國は大正3(1914)年9月、ロシア/フランス/英国の救護員派遣要請に閣議決定で応える。参戦半月後のことで、国際的地位を一層向上させるためにも、派遣を成功させなければならなかった。最新医療機材と大量の薬品を用意し、医長▽医員▽事務員▽通訳▽看護婦長・看護婦で救護班を編成。戦時救護訓練を受けた《救護看護婦》は日赤本社や道府県支部別に技量/肉体強健/人格/一定の語学力を基準に厳選された。救護看護婦とは日赤用語で第一次大戦後、帝國陸軍が一般看護婦を採用して以来呼ばれ始める《従軍看護婦》と実態は同じだ。
早くも翌月ロシアに向かう。4週間近くシベリア鉄道に揺られ現在のサンクトペテルブルクに着く。救護班総数20名(内看護婦13名)で、社交倶楽部、後に貴族の別邸に戦時病院・日赤救護班病院を開設。延べ4万3600名の患者を診る。
2カ月近く遅れて、フランスに29名(同23名)が、船で横浜を出発し、スエズ運河経由でマルセイユ→パリに50日も掛かって到着。凱旋門にほど近い一流ホテルを戦時病院・日赤病院として借り上げ、延べ5万4900名の患者と向き合う。
さらに3日後、27名(同22名)が英国へ発つ。米国を横断し1カ月後にロンドン郊外で救護に従事、患者は延べ7万8800名に上った。
冒頭触れた《史料集》が収録する戦死傷原因や使用兵器を記したノートには、ハツメさんらがくじけそうになったであろう地獄絵図が透ける。「白兵創/刺創」「銃創」「砲創」「爆傷」など大戦以前にも在る戦死傷原因と人数が並ぶ。「轢傷」というのは新兵器のタンクで轢かれた将兵だろうか。一方で、大戦で進化した「機関銃」「地雷」や低性能ながら投入された「飛行機」、非道なダメージ故国際法で当時既に使用禁止だった「ダムダム」弾も、使用兵器として特記されている。
さすがに看護婦らは精神的にも肉体的にもボロボロだったに違いない。「さすがに」と断ったのには訳がある。3カ国に赴く看護婦には、日清戦争(1894~95年)→北清事変(義和団の乱/1900年)→日露戦争(1904~05年)時、内地の陸軍予備病院や外地より傷病兵搬送に当たった病院船などで勤務した、経験者が優先された。仏派遣看護婦も経験者が3分の1を占めた。看護実績は高く評価され、パリの日赤病院は他の仏病院に比し重篤者を治療する拠点となる。ハツメさんも日露戦争で傷病兵を扱ってはいた。だが、第一次大戦は毒ガスによる熱傷や右肩から左肩を串刺しにした砲弾片、シェルショック(戦争ストレス反応)…など、凄惨の烈度は別次元だったようで、ハツメさんは「戦慄」した。
しかも、看護婦は言葉の壁に悩まされてもいた。パリ到着までの50日間、フランス語、特に体の部位などにつき猛特訓を繰り返す。ところが、地方訛の強い兵士との意思疎通は難しく、当初は日赤への入院を嫌がる将兵も少なくなかった。
もっとも、悲惨な患者に慣れ、会話が少しずつ成立するようになると、既に称賛されていた医員の治療法に加え、ずれない包帯の巻き方など、看護技術は外国医療団の学習対象になり「戦時病院の模範」(1915年12月11日付仏紙)と激賞される。出血が止まらぬ兵士の傷口を9時間も抑え続けており、博愛の心に富んだ応対も連合軍将兵の心を打った。《史料集》に、浴衣を着た傷病兵とともに写る写真を見る。ハツメさんたちが激務の合間、血まみれで後送されて来る傷病兵用に、清潔な着替えとして縫ったものだ。斯くして、手づるを使い入院を画策する将兵まで現出する。
派遣先政府も実力と献身的看護、規律に瞠目した。5カ月間の派遣予定が仏露2回、英国が1回延長を要請。わが国は受諾している。帰国に際し、フランスでは大統領の謝辞や政府/赤十字の表彰・感謝状、英国でも国王謁見の栄誉を得た。各界主宰の送別宴への出席も忙しかった。《史料集》に載るハツメさんの写真では、勲七等瑞宝章▽勲八等宝冠章▽仏国勲章▽日露戦争従軍記章が胸に光る。
ところで、仏組は出国~帰国・解団式まで1年10カ月間、露組は同じく1年7カ月、英国組も1年3カ月と、独身者もいたろうが長期にわたる過酷な単身赴任が続いた。戦時の救護(日赤)看護婦召集には、乳飲み子を抱えるといった家庭の事情にかかわらず、原則20年の長期にわたり応召義務が課せられていたためであった(後15→12年に短縮)。しかし、御国の名誉に挺身する使命感と職業意識が占めた部分が格段に大きい。
日清戦争当時は「卑しい看護婦が名誉有る帝國軍人の世話をするのか」と非難が聞かれたが、北清事変→日露戦争での評価が欧露派遣につながる。その欧露派遣は「看護婦さん」が女子の憧れになってゆく過程を加速した。女性の憧れる職場環境を、安倍政権が創造できるか-。女性の側にも、強烈な使命感や職業意識がなければ達成はおぼつかない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)