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【東日本大震災4年】首相、夏までに次期支援枠組み策定 「関連死」めぐり 苦しみ続ける遺族

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【東日本大震災4年】首相、夏までに次期支援枠組み策定 「関連死」めぐり 苦しみ続ける遺族

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宮城県本吉郡南三陸町の防災対策庁舎(写真中央)。「震災遺構」として保存するか解体するかで意見が分かれている=2015年3月10日夕(大西正純撮影)  東日本大震災は11日、発生から4年を迎える。安倍晋三首相(60)は10日夜、官邸で記者会見し、2016年度以降の復興事業について、今夏までに次の5年間の支援枠組みを策定すると明言。東京電力福島第1原発事故に関しては「福島再生の政策パッケージを早ければ5月に決定し、福島の自立に向けた将来像を夏頃までに取りまとめる」と表明した。

 震災による行方不明者は岩手、宮城、福島3県を中心に10日現在でなお2584人に上っている。昨年3月10日時点に比べ、行方不明者の減少は3県で49人にとどまった。

 各地の仮設住宅は空き家も目立つようになったが、2月末現在で岩手2万1930人、宮城3万4648人、福島2万3794人の計8万372人がいまだにプレハブの仮設住宅で暮らしている。福島第1原発事故の影響が続く福島県では県外避難者数は4万7219人で、ピーク時から1万5000人余りしか減っていない。

 ≪「関連死」めぐり 苦しみ続ける遺族≫

 震災と東京電力福島第1原発事故から丸4年が経過しても、関連死の認定は続いている。

 3県で震災関連死者数が最も多い福島県。その中でも東京電力福島第1原発の北側に位置し、一部が20キロ圏内に含まれる南相馬市では震災関連死者数が463人(2014年9月末現在)にのぼり、全国の自治体で最多だ。原発事故の影響と地震や津波で医療機関の大半が機能を失ったことが原因とみられる。

 市社会福祉課の石川浩一課長(56)は「病院から動かしてはいけない(重病の)人も避難しなければならなかったため、避難先への移動中や避難による環境の変化で亡くなった人も少なくない」と明かす。

 南相馬市で農業を営んでいた福島県議、高野光二(みつじ)さん(62)が母、小夜(さよ)さん=当時(90)=の震災関連死認定を求める裁判を起こしてから1年以上が過ぎた。これまで4回の公判が行われたが、まだ判決は出ていない。

 小夜さんは震災の1年5カ月後、食べ物がうまく飲み込めず気管に入ってしまうことで引き起こされる誤嚥(ごえん)性肺炎で亡くなった。

 原発事故で避難指示区域に指定された南相馬市。震災当時、大腿骨を骨折して入院中だった小夜さんが自宅に戻ることは1度もなかった。懸命にリハビリを続けていたのに、高野さんから「しばらく家には帰れないんだよ」と聞かされると、寂しそうな表情を浮かべ、それまでつけていた日記もやめた。次第に食事もとれなくなり、最期は眠るように息を引き取った。市側は「治療を受けられる環境にあった」との理由で関連死と認定しなかった。

 高野さんが裁判という手段を選んだのは、小夜さんの悔しさを晴らすためだけではない。

 「今回の震災や原発事故は過去に例を見ないほど特異な災害。国はこの災害を踏まえた上で震災関連死の基準をつくるべきだ」と高野さんは語る。

 負担大きい異議申し立て

 震災関連死は、不認定とされた場合には異議申し立てができる。しかし、さらに震災や原発事故との因果関係を証明する証拠を示さなくてはならないため、遺族にとっては負担が大きい。一度不認定とされれば、異議を申し立てない人もいる。

 福島県郡山市で避難生活を送る亀田光一さん(61)は、南相馬市の自宅で同居していた父、安太郎さん=当時(82)=を震災の11カ月後に亡くした。原発事故で避難先を転々とした末、介護施設で嘔吐(おうと)し誤嚥性肺炎を起こしたためだった。

 光一さんは南相馬市に震災関連死の認定を求めたものの、「施設で介護を受けていた」として認められなかった。光一さんは異議を申し立てなかった。その理由に納得したわけではない。

 「自分たちの生活で手いっぱいで、そこまでする気はない。(異議の)申し立てをしても答えは同じだろうから、これ以上はしないよ」

 南相馬で生まれ育った安太郎さんは福島第1原発の建設工事に携わった後、人生の半分を農業にささげた。自宅で牛も育てた。寡黙でグチひとつ言わず、一生懸命働く人だった。

 原発事故で光一さんの姉の自宅に避難した後、福島県伊達市の介護施設に入所した。11年4月に腸閉塞を患ったが完治して退院。故郷の伝統行事「相馬野馬追(そうまのまおい)」を見るのを楽しみにしていた。体調に不安があったため、光一さんらが諦めるように説得すると、「あんなにがっかりした様子は見たことがなかった」ほど落ち込んだ。

 それから次第に、家族の顔が分からなくなっていく。12年2月、光一さんらが暮らす郡山市の介護施設に入ってわずか2週間で亡くなった。

 「避難先や介護施設での生活は相当なストレスがあったと思う。知り合いもいない、全然知らない土地で亡くなったのは無念だったろうな」。光一さんは安太郎さんの心境を推し量って、こう続けた。

 「震災関連死の認定を求める人はたくさんいる。その一人一人がどんな状況で亡くなったのか話を聞いてほしい。そうすれば少しは報われるだろう」

 震災関連死と認められなかった遺族は、大切な人を失った悲しみとあわせ、2つの苦しみを抱えて生きている。(SANKEI EXPRESS

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