キャリア

“家業”を2度救った元商社マン メテックスCEOの波乱万丈人生を聞く (2/3ページ)

SankeiBiz編集部

 「最初はソニーに入った。家電産業は成長すると思ったから。しかし、どうもそりが合わない。やはり、私はメーカーよりも、商社とか金融の方がいいということで、大和証券に移った。大和証券では、ニューヨークに赴任し、株を売った。ちょうど日本に対する国際的関心があったので、日本の一流企業の成長株を売った。ニューヨークには5年いて、それから日本に戻り、海外の企業や国に日本で起債してもらう仕事をした。そのころは東南アジアが発展していく時期で、そのために必要な資金調達を助けられる。月のうち20日ぐらいは東南アジアを回って、とても面白かった。けれども、米国へもう1回行ってくれという話が出てきた。ちょうど娘が中学校に進むころで、単身赴任しないといけない。私は子煩悩で、離れて暮らしたくなかった。そんなとき、米国のウィスコンシン州の駐日代表の募集が新聞に載っていた」

 どんな仕事か。

 「調べてみたら日本に駐在して、ウィスコンシン州の商品の輸出をサポートするというものだった。日本では海外製品が割高だったが、もっと安くすれば日本に入ってくる。そのほうが日本のためになるのではないか、そういう商売もいいのではないかと思って手を挙げた。応募は多かったが、採用が決まり、大和証券から転じた。ウィスコンシン州の駐日代表は結局7年近く務めた」

 健康用品で赤字解消

 “家業”に再び戻ることになったのはなぜか。

 「私の母親はとてもエネルギッシュな人で、両親の繊維卸の会社とは別に、繊維雑貨の輸入卸の会社をつくった。その会社を弟が継いでいたのだけれど、バブルの時、銀行から金を借りて、投機に走ってしまった。結果、借金が膨れ上がり、私に泣きついてきた。見放すわけにもいかず、駐日代表を続けながら、弟の会社の面倒もみることにした」

 どう再建したのか。

 「ウィスコンシン州の駐日代表だから、ウィスコンシン州のいろいろな商品を日本に輸出してくれと頼まれる。その中に腰痛防止ベルトがあった。日本の商社に売り込んで、取り扱うことになっていたが、そこがやめたといってきた。それで、弟の会社で扱うことにした。当時はスキーが全盛で、みんなコーチについた。スキーのコーチは斜面に立って教えるので、腰痛になる人が多い。スキー板の会社に売り込んだらすごく評判が良く、爆発的に売れた。これは健康用品だということで、ほかの商品を探したら英国の枕があり、これも売れた。そのあと5、6番目に扱ったのが『ハッピードルフィンマッサージャー』というツボ押しグッズ。これが弟の会社の赤字を消した」

 その後、自ら経営にあたることになった。

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